未曾有の被災から13年

TVでは、東日本大震災13年の今日、様々な特集を報道、またまた涙が溢れてしまいました。


当時流された映像や報道の幾つかが、心に焼き付いています。


水を運ぶ少年

産経web NEWS で世界中に知られました。

私も、画像を日記帳に貼ってあります。


当時10才の松本魁翔(かいと)君は、何かしなければ!と、片道20分の道を1ヶ月水汲みに往復しました。
ピンクの長靴を通して、釘を踏み、傷ができたが母親を心配させるから言えなかった。
2021年成人式を迎えた姿です。
(ネットからお借りしました)

気仙沼市立階上(はしがみ)中学校卒業式。
避難所での梶原裕太さんの答辞。

いまだに胸に刺さる答辞。
その後、梶原さんは岩手県の高専で土木工学を学んだ後、地元に戻り、地盤改良の仕事をされてるそうです。
『地面を丈夫にしてる、、と、仲間に言えるように』と。
(ネットからお借りしました)

タレントの梶原雄太さん、九州大学研究者の梶原裕太さんは別人です。

『おかあさーん!』と海に向かって泣き叫んだ少女。
当時小学校高学年だった少女。
『おかあさーん!おかあさんも先生も友達もみんないなくなったよー』
間に合わせのジャンパーをまとい、泣き叫ぶ少女は今20代半ばでしょうか!

犠牲者22000人以上。
親を亡くしたこどもは1800人。
今も2.9万人が避難生活されてます。

大川小の教師

最大の悲劇。

108人の児童の7割74人と教職員10人が黒い波に呑まれた。
想像すると胸が痛みますが、哀しみは余波を呼んでしまっています。

当時の校長は、娘の卒業式で午後から年休をとり、内陸部にいて助かった。
以後、日々児童の亡骸を探し回った。
が、遺族からの訴訟裁判の場では、教育行政の立場での答弁となった。

また、同校の教員だった息子を失った両親は、世間の目があり、息子の葬儀もちゃんとしてあげられなかった。

↓震災遺構の大川小(ネットより)

玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)

福島県三春町の臨済宗僧侶、作家。
芥川賞『中陰の花』他。

『残ってるひとらが変革しなければ、犠牲になった人たちは浮かばれない』

当時、このお話を聞いたときは、私でも少しは薄紙を剥ぐように、小さな変革ができそうな気になりました。
でも自分を変えるのは、とても大変で、私も相変わらず浅はか。
世の中も嫌なことが絶えません。

しかし、玄侑宗久さんの言葉を忘れないように心掛けたいです。

今日は、100%の晴れでした。
凍み渡りできるか!と、期待しましたが、ノン❗でした。
雪原が凍み渡るには、前日快晴で、雪がどんどん溶け、夜間冷え込み、翌日も快晴☀️という条件が整わないといけませんから。

13年前の今日は、寒かったですね。