★ 満蒙開拓団の悲劇 ★  悲惨な表現がありますので、耐えられない方は、無理なさらずに・・。

 

 

8月25日は、満蒙開拓団・高社郷の入植者が集団自決した日です。

1931年~1945年、国策として27万人が中国東北部の「満州国」・内モンゴル地区に入植させられました。山が多く、貧しかった長野県から最も多い37800人が送出されました。

 

満蒙開拓青少年義勇軍(15歳~18歳)も長野が最多でした。

このうち、南の飯伊地域についで、多かったのは当地方です。

 

↑ SBC信越放送・8・25

 

 

ソ連に近い極寒の村に入植した北部の人達は、故郷の山・高社山にちなみ、『高社郷』と名付けました。

 

↑ ネットより

隣村・木島平村の高山すみ子さん(近年91歳で死去)は、17歳で家族とともに入植。現地で結婚。

子ども2人をもうけましたが、夫はすぐに召集されました。

 

 

敗戦色が濃くなり、ソ連軍侵攻の気配を察知した『満州国』の高級官僚や軍幹部はいち早く逃げました。

自分たちだけ、輸送手段を手配し、財産を持って、この棄民措置は、許されませんね。

8月9日、ソ連軍の侵攻が始まり、高社郷の人達の死の逃避行が始まりました。

終戦になっている事実も知らない人達は、8月25日集団自決しました。(500人余とも600人余とも)

 

多くは銃殺で、天井近くまで死体が累々と積まれました。

井戸に投げ込まれた人で、井戸はいっぱいになりました。

我が子の首を絞める親も・・。

 

村長は自分の妻と20代の二人の息子を殺しました。

 

 

高山さんは、子どもたちに最後のキャラメルを与えました。

「ノノ(仏)さんになるんだよ」

「そこへ行けば誰に会えるの?」

「優しいじっちゃだよ」

高山さんは、傍らに二人を座らせ、手を合わすように言いました。

副村長の銃が火を噴き、子どもの体は舞い上がりました。

「次は私を・・」

副村長が撃とうとした時、ソ連軍がやってきて、副村長を撃ちました。

高山さんは、意識を失い、捕らわれました。

 

 

高山さんは、命からがら内地へ戻り、復員した夫との新しい子どもも授かりましたが、あの子らの顔は、生涯頭から離れないと、この悲劇を語り続けました。

私も2回お話を聴いたり、著書も読みました。

生存されている悲劇の証人は、4人だけになりました。

一時は慰霊法要に参加する人も減りましたが、若い人たちによって語り継がれる動きも出てきました。

 

今日は、雨の中での法要となりましたが、高校生も大勢参列してくれたことを、地元テレビの報道で知りました。

 

私も法要に誘われましたが、それはできず、家にある余り布で縫い物をしました。

 

生きていれば、同じ世代の人達もいたであろう満蒙開拓団の人達。

美味しいものも、縫い物も、音楽も無縁で、辛い思いだけの短い生涯でした。

その正確な氏名や死者の数も定かではないと聞きます。

 

今日もおいで頂きありがとうございます。