唐桑で有名な折石(大理石)、明治の津波で先が2メートルほど折れたが、
今回はそのままだ。右奥に白波がたっているが、やはり、くじらか。
ダンナは、あまり信じてないようだったが、子供と私は大興奮。
見える人には見える、くじらなの!!

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ふるさと創生1億円でつくられた漁火パークは、主に鯖立からの被災者の
仮設住宅になっていた。
鯖立といえば、鈴木重雄さんがいたところだ。
鈴木重雄さんって知ってますか?と聞けば、
「知ってるよ。あの病気のね」
うーーーん。唐桑、気仙沼の発展に多大な貢献をしてきた偉人だが、
それよりも、先に病気の・・・が形容詞としてついてしまうところが悲しい。
 

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漁火パークは唐桑に数少ないレストランがある。
味噌担担麺がおいしかった。

震災後、唐桑の情報は全く報道されなかった。
5日後、ようやくグーグルの人探しのサイトで高松園の馬場さんの無事を確認できた。
が、唐桑、一体どのぐらいの被害があるのか、支援物資は行っているのか、
さっぱりわからない。

いち早くかけつけたのは、鈴木重雄さんが町長選挙に出馬したときにも
応援団として唐桑入りしたハンセン病支援を続けるFIWCのボランティアだ。
高松園は、鈴木重雄さんがつくった施設、それを守る馬場さんの自宅の敷地内に
持参したプレハブをたて、そこを拠点に活動を続けている。
がれき除去、掃除からはじまり、今は唐桑の人の要望に応える形で、ありとあらゆることをする。
ホタテの養殖で稚魚の植え付け、壊れた船のペンキ塗りや屋根の修理。
 

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知っている顔もあった。早稲田の学生で、ハンセン病支援をしていた加藤くん。
チャオというグループで、中国のハンセン村に道路をつくったりもしている。

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加藤くんは、就職が決まっていたが、震災がおきたので、とにかく唐桑にきて活動をはじめた。
これからどうするの?と心配されているが、私にはまぶしく、たのもしく映る。

論語の言葉にある。
「先ず行う、その言はしかる後に之に従う」

まず、動くことが大事だ。この経験が加藤くんの人生の糧となるだろうと確信できる。
回り道をしたように見えてもそれは回り道ではない。
それが一つの道につながっているし、つなげればいいのだ!
日本財団ボランティアセンターから来ている横浜市立大4年の木村亮太くんも
5年生になるのは確実だ。でも、いいじゃあないか!
日本財団のボラセンを率いているのもハンセンを長くやってきた早稲田の西尾先生。
みんな、何かしらハンセンつながりなのだ。
鈴木重雄の影響力、意志は、今に引き継がれていっているといえる。
唐桑は、震災直後、道路が寸断され完全に孤立してしまった。
高台が多かったのはよかったが、それでも、鯖立のような漁港周辺の集落は壊滅的な被害。
自衛隊やマスコミよりも、いち早く唐桑の様子を見に来てくれたのは、
米軍だったという。
まだ水もなかった時で、全てが足りなかった。
米軍のとてつもなく大きな艦船が唐桑の広田湾に入り、ヘリで空き地に軍人が降り立った。
馬場さんの家の隣のアパートにはアメリカから派遣されている英語教師エドが住んでいて、
馬場さんの言葉をエドが英語に訳して、米軍人に伝えた。
避難所になっているのは、どことどこで、何が必要か。
その情報を得て、あっという間に米軍は支援物資を運んでくれたのだ。
日本政府からの要請など待ってられないという判断のもと、さっさと住民を助けた米軍の行動は
あっぱれだ。

もう一度。「先ず行う、その言はしかる後に之に従う」まさに、これ。


馬場さんからお土産にともらった鮭。
これから故郷の川に帰るところだったのだけど、ごめんねえ。
いただきます。
 

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ヌメリがあるのでさばくのは一苦労だったが、ちゃんと白子も取り出して
さっと茹でてポン酢で。あらは鍋にして。美味しかった。
身の部分は冷凍させている。そうすることで寄生虫を退治できるとか。

さあ。どうやって、気仙沼の応援ができるだろうか。
漁業、観光を復活させるにはどうするか、考えていこう。

宮古の牡蠣養殖だが、オーナー募集をしている。
今支援金含めて出資し、春に、牡蠣が自宅に届く制度。
唐桑のホタテ養殖でもこういうのをやってみたらどうだろうか。
ツイッターやFBで拡散しやすいようなしくみにして。
おそらく、日本中の心ある人は何かしたいと思っているはずだ。
目に見える形で自分の寄付が使われる方が嬉しいもの。
きっと、これはいいアイデアだろうな、と思う。

小さなことからこつこつと。