なんで福島に行ったかというと、父が福島で働きたいと言い出しているからだ。
放射線科が長かった父は、甲状腺がんも詳しい。
私も実はよく知らなかったのだが、とっても難しそうな医学書にも執筆していて、
医学生の教科書にもなっている。
今も、現役で千葉の老健施設と病院の外来とかけもちでやっているが、
震災後は、日に日に、被災地の医療に携わりたいという思いを募らせている。
もう73だし、癌や脳こうそくや心臓や、日本人の3大疾病すべてやって、
いくら、体育会系の体自慢だった父も、かなり、ガタがきているのは確か。
私は、父の志を聞いて、感動したし、いよ、それでこそ、男だ!と思った。
でも、慎重な姉は、それは無謀だと私を諌める。
いつもそばに母がいて、着るもの、食べるもの、身の回りのお世話をしていた。
母は、今の家が気に入っている。行くなら、基本的には一人だ。
気持ちはあっても、結局は、まわりに迷惑をかけることにならないか?
悩みはつきない。
私も、父を煽って、引き戻せない状態にしてしまっているのではないか、
私は鬼か、と思ったりもする。行けば行ったで、夜はさみしいだろうし。
でも、父は、本気である。
肝臓を切った直後でさえお酒を控えることのなかった呑兵衛の父が、
お酒をぴたっと止めた。
ひとえに、福島で元気でいつまでも働きたいがためだ。
放射能で不安になっている人たちのそばにいて、手助けしたいという思いだ。
目も片目が不自由だ。ろれつも、時々あぶなっかしい。
でも、医者としては、頼りになる。長年の職人の勘のようなものがあり、
癌の診断に関しては、プロ。自分の癌も自分でみつけている。
大昔やった肺炎のあとも、みつける。
ちょっとした病気でも、電話をすれば必ず的確な答えがかえってくる。
我が家のヒーロー!なのである。(はい。ファザコンです)
私は、父の影響がものすごく強い。
性格もそっくりだと思う。
思い立ったら、誰が何と言おうと、行動にうつしちゃうところとか、
人のためになることをやっていないと、生きている感じがしない、とか。
ついでにいえば、かっこいいーと人から言われると、どこまでも
木に登っちゃうところとか。ふふふ。
それでいて、自分の弱さもダメなとこもよくわかっていて、落ち込んだり。
人間の死亡率は100%、いつかはその時がやってくる。
残された時間をいかに前向きに、ポジティブに、過ごせるか。
人生の最終章にそろそろ入ってきているのだもの、
かっこよく、演出していこうよ、と思う。
人生は、一つの長いストーリーなのだから、ダイナミックに面白く感動的に!
とにかく、生きていくためには、目標をしっかり定めることが不可欠。
最後まで、夢をもち、やるべき仕事をもち、自分は必要とされているんだという
実感を持っていられる人は、間違いなく長生きする。そういうもの、と思う。
アウシュビッツの強制収容所から生還した精神科医フランクリンが書いた本、
「夜と霧」にこんな話がでてくる。
1944年のクリスマスから新年までの間に大量の死者が出た。
これは、労働条件の悪化や食糧事情などでは説明がつかず、クリスマスには
家に帰れるという希望が打ち砕かれた結果で、
生きる目的を失い、自分が存在することの意味をなくしてしまえば、人は崩れていくということ。
ひるがえって、生き抜いた人に共通するのは
「自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間」であるという。
仕事と愛、絆が生きるエネルギーになるってことだ。
福島にいくぞっと決めてからの父は、以前にもまして、若々しくなったように見える。
福島は、京大の医学生6回生の時に、馬術の全日本大会で優勝した思い出の地でもある。
何か、縁があるんだよ、と後付かもしれないが、父はいう。
同じような思考回路をもつファミリーとして、父は、間違いなく福島に行くでしょう。
そのための、視察もかねて、福島をまわっている。
これから、何度も足を運ぶつもり。
父が行くのであれば、私も、できる限り手伝いたい。
私もたくさん勉強しよう。
福島の被害と原発に、向き合って生きていくぞ、と心も新たに、ここに宣言。