琵琶湖一周と野洲市の古墳群、近江大津京を訪れる | やべちゃんのブログ

1はじめに

 琵琶湖周辺(近江)は京都に近く、古代から流通の拠点として

重要視され、古代から戦国時代の遺跡が多く有ります。

特に古代には日本海と大和が琵琶湖で結ばれた重要な流通ルート

がありました。

 今回は鳥取県の加茂岩倉遺跡の37個に次ぐ24個の銅鐸が

発掘された大岩山古墳群(野洲市)と667年に天智天皇が遷都した

近江大津京跡を訪れ、列車で琵琶湖を一周してきました。

 

      野洲市と大津市、琵琶湖の位置(滋賀県)

2大岩山古墳群と銅鐸博物、桜生(さくらばさま)史跡公園

 

       野洲市の史跡マップ(多くの遺跡がある)

 大岩山古墳は17期の古墳で構成され、内8基が史跡指定受けて

います。築造は3~6世紀にわたり、この地域を統治した首長に

かかわる歴史が感じとれます。一地域でこれだけの歴史がつながる

「地方都市」は珍しいとのです。

 5年後の壬申の乱の敗戦でわずか5年半の都に終わった。

 

  銅鐸博物館入口にある銅鐸のシンボル

 

  銅鐸博物館のある「弥生の森歴史公園」

 

  発掘された銅鐸(複製)19個、日本一高いもがある

 野洲川流域を支配した「安」氏の墓で、古墳時代

 初期~飛鳥の古墳群が分布している

大塚山古墳、帆立貝式前方後円墳、5世紀中

72m(国の指定史跡)墳丘は3段で珍しく

古墳群で最大

 桜生(さくらばさま)史跡公園には大岩山古墳群

 に含まれる天王山古墳、円山古墳、甲山古墳の

 三つがある

天王山古墳、4世紀後半はち形前方後円墳

65.5m、(国の指定史跡)

円山古墳37mの円墳、6世紀初(国の指定史跡)

の石室入口

 

3近江大津京跡(大津市)

 天智天皇は667年、斉明天皇が都をおいた飛鳥岡本宮より、

近江大津宮に都を移されました。目的は大化の改新の理想に

基ずいた政治改革を行うために人心の一新を図ること。及び

同盟国でであった百済への援軍を出して唐・新羅連合軍

と戦った、4年前の白村江での敗戦後、本土進攻の危機が

深まったことから、国土防衛の根幹として、天然の要害で

あり交通の要所でもある大津に遷都したものと考えられている。

しかし、5年後の壬申の乱の敗戦でわずか5年半の都に終わった。

 

          近江大津京の復元図

   大津は日本海と大阪を結ぶルートの流通拠点でした

 

 京からの大津入口の瀬田の唐橋、この重要拠点

 で何度もおおきな戦いがあった

 

  現在の近江神宮、この付近に宮があった

 

         近江大津の跡

 

       近江大津京跡の表示板

4琵琶湖一周(列車)

 古代には日本海と大阪を結ぶ重要ルートにあたる琵琶湖

 の位置を確認するために一周してみました

 

        琵琶湖一周周辺図

草津~米原~長浜~近江塩津~近江高島~(湖西線)~大津

と廻りましたが約4時間とけっこう不便(開発が遅れた)所でした。

 2月のためか、湖西線沿線は雪景色であり、日本海側気候で

ある事を改めて知りました。近江塩津から日本海の敦賀まで

約2時間と近いこともわかりました。

 

         湖西線の雪景色

 

     雪景色の風景、民家が少ない

 5まとめ

  琵琶湖を一周して、野洲市の古墳群と銅鐸文化、および

 近江大津京跡を見学し、改めて近江の重要性を認識しました。

  古代の琵琶湖ルートが現実味を帯びてきました。魏志倭人伝

 の邪馬台国への日本海、琵琶湖ルートも十分考えられると

 思いました。

 「安」という豪族の野洲古墳群、銅鐸文化の範囲等、多くの

 疑問が残りますが、多くの遺跡の関連等、興味のある地域

 でした。