高田屋嘉兵衛は、今から252年前

(江戸時代)1769  1  1 日に

淡路島の都志本村

(現在の五色町)

農家の 6 人兄弟の長男として

生まれました


嘉兵衛の生きた時代は

江戸時代は鎖国を国是とし

長崎以外では外国との交易を認めなかった時でした


松平定信が老中に就任する前は田沼時代と呼ばれ

老中田沼意次(たぬまおきつぐ)による経済振興を主眼に据えた政治が行われていました

田沼意次による政策により

地方の農村まで貨幣経済が浸透して都市部では華やかな文化が始まります
一方で役人たちの間での賄賂の横行など政治の腐敗も進みます


また浅間山の噴火や天明の飢饉などの天災によって、天明の飢饉によって引き起こされた天明の打ちこわしは

江戸や大坂だけでなく

全国30都市で打ちこわしが

行われ米屋などが襲われました

その結果、田沼派は失脚し

名君で知られた松平定信が老中に就任田沼時代の悪い習慣を一切させないように

引き締めたのが松平定信の寛政の改革でした



高田屋嘉兵衛はこうゆう時代に生まれました


幼い頃の高田屋嘉兵衛は

すでに海が大好きで

川に木ぎれで作った船を

うかべて遊んでいると

ある日、河口近くの水面が

同じ時刻でも水面の高さが違うことに気づき潮の満ち引きを調べました


13 歳

親戚宅和田屋喜十郎方で商売の手伝いをしいろいろな知識を得ます


22


兵庫(現・神戸市兵庫区)に

出た嘉兵衛は大坂 (大阪)と

江戸の間を航海する

樽廻船(たるかいせん)

水主(かこ)となり、船乗りとしての

スタートを切ります


弟の嘉蔵は堺屋で因幡・伯者の国と兵庫を結ぶ下関回船に乗り込んでいたが、嘉兵衛は大坂江戸間の樽回船に乗りました


嘉兵衛はすでに淡路で瓦船などに乗った経験もあり、すぐに頭角を現し沖船頭に昇格していきます


27歳になった嘉兵衛は

和泉屋喜兵衛の沖船頭になって

はじめて兵庫から日本海を通って酒田にでます

やがて優秀な船乗りとなり

沖船頭になると二年ほど船を下りて、熊野灘でカツオ漁に従事しました

このころには、淡路の都志から兄弟を呼び集め

一緒に活動をしていたようで

嘉兵衛は男ばかりの六人兄弟で弟たちは

嘉兵衛を支えていました


このカツオ漁は嘉兵衛が北前船を手に入れるための資金集めの為の行動たと考えられています



熊野灘でのカツオ漁を二年続けた後、嘉兵衛は和泉屋の沖船頭として再び船頭に戻りますが


その翌年28

念願の当時国内最大級の千五百石積みの辰悦丸を新造した

嘉兵衛は兄弟たちと「高田屋」を立ち上げ日本海の湊(みなと) を結びながら大坂と蝦夷地を行き交う廻船問屋として活躍します 


それまでは、珍しいものという蝦夷地の産物が、松前藩の場所請負という制度に乗って

全国に展開していった時代です


流通を支えたのが

北前船で代表される日本海海運でした

当初は、商人たちが共同で船を雇い産物を北陸や大坂などに

細々と運んでいたが、次第に自分たちの船を持ち、北前船という海運業を成立させてきました

それは、蝦夷地が開発され

産物が増えてきたこと

全国的な流通革命が各地で通行してきたことによるものだと思われます


辰悦丸に、酒・塩・もめん類を積んで酒田におもむきそこで米を積み込んで蝦夷地(北海道)に向ったが目指した所は

松前でも江差でもなく

箱館(北海道函館市)でした


蝦夷に来て知る千島の情勢は

1800年前後、ロシアは何度も南下してくは侵略する計画を立てていました


ロシア人を

日本へ向かわせた理由のひとつが、ラッコなどの毛皮です

その 商業的価値から「柔らかい金」ともよばれたこの毛皮を求めて18世紀初頃には

ロシアの毛皮商人たちの千島列島の南下がはじまりました


かれらの 活動が盛んになるにつれ、物資補給地、 交易地としての日本との関係構築が喫緊の課題となりました

一方、ロシア人がエトロフ島やウルップ島辺りに渡来し

アイヌと交易するような状態を危惧した幕府は

国防対策を急ぎます



幕府は北の辺境を知る必要があると考えて、間宮林蔵、近藤重蔵の探検家を派遣しました

近藤重蔵は厚岸から択捉島に渡って調査しようとしましたが

国後海峡は難所で渡る術がないと言われていました




事業の最前線がエトロフ島であるが

松前藩はクナシリ島までを勢力範囲に置き

漁業などの事業を展開していましてがエトロフ島までは勢カが及んでいませんでした


その理由はクナシリ島とエトロフ島の間には

クナシリ海峡といって

とても潮の流れが速い海峡があり大きな船でエトロフ島に渡ろうとすれば

船が壊れてしまう危険があり

当時の船乗りたちは恐れて近寄ろうともしませんでした


現在でもビザなしで択捉島に渡る時

国後海峡に差し掛かると、船内は渦を巻いたようにグラグラし

立っていられなくなり

船酔いする人達が続出するくらい波の流れがすごい場所です


それなのに

当時のアイヌ人の人達は

小さな船で命がけの波任せに渡っていた様で本当に凄いと思います


幕府の役人の近藤重蔵は開拓の責任者で前年にアイヌの船で渡った経験がありますが

波の凄さに「二度と行きたくない」と周囲に漏らすくらい大変な難所だと言えます


幕府は、この航路開拓をする

船頭を募集しますが誰一人として応じようとしない


このままでは、幕府の考えているエトロフ開拓は無くなってしまうと行き詰まっていた所に

高田屋嘉兵衛は寛政八に辰悦丸を手に入れて三年目という新進気鋭の船持ち船頭でした


ちょうどその時に北海道厚岸に高田屋嘉兵衛が来ていた事を知り、近藤は訪ねて『択捉島に一緒に行ってくれないか?!』と頼み込みました

海峡をちゃんと調べてみなければと返しすぐに取りかかります


厚岸の風景


31 歳

嘉兵衛は幕府の役人近藤重蔵の依頼を受けて、蝦夷地(北海道)の北にある国後島と択捉島の間の航路を調べました


数日見ていると、海峡の潮目はとても早く3本走り、やはり船で行くには難所です

でも高田屋嘉兵衛は

小さい頃から潮目を見る技術はあったので潮目を慎重に見極め

小さな船でも渡れるように

安全な新しい航路を開拓しました


現在私たちが島に行く時使っている航路も高田屋嘉兵衛が見つけた航路です



嘉兵衛はこの功績により、蝦地定雇船頭に取り立てられ、その後エトロフ島の開拓を一手に引き受けることになります


その後、厚岸、根室や国後で交易を始めて択捉島に17箇所の漁場を置き

高田屋嘉兵衛は近藤重蔵らと共に択捉島に住んでいたアイヌの人たちに 

魚のとり方を教え、魚の肥料や干物を作る加工場をつくり

利益を公平に分け合い

取り扱う商品の品質管理を厳密に行い幕府や地域の人々から熱い信頼を受けました。


近藤重蔵の同僚の山田鯉兵衛は報告書の中で「嘉兵衛は兄弟たちと「高田屋」を立ち上げ日本海の湊(みなと) を結びながら大坂と蝦夷地北海道)を行き交う廻船問屋として活躍します。

幕府にとっても十五万石の土地が出来たのと同じ効果がある」と言っています

しかし、これらはすべて嘉兵衛の努力の結果でもありました



そして、高田屋嘉兵衛の乗った船の帆布も丈夫だったからこそ無事に航海がなされていたと思います

古代エジプトにおいて船の

「帆」として使われるようになったのが始まりとされる帆布


 日本では織田信長の帆船に用いられたのが最初だと言われています。


その発祥は、古代エジプトまで遡り、船の帆として使われた亜麻帆布が起源と言われています


工来・楽松右衛門

影屋という想船問屋を営んでいたが発明家として知られ

府から工夫を楽しむという意味から「工楽」を賜った人である


それまでの帆は刺し帆といい、木総布二枚を併せて刺し子で縫い合わせるが、これは人手を要し水分を含むと重い


そこで改良して織り帆を考え

松右衛門帆とよばれ、その技法はカンバスベルト生地とかゴムタイヤに入れるすだれ織りの形で、現在に受け継がれている。

その他にも

ろくろ用いた土砂取船

海底をさらえる底接船

水底に杭を打つ抗打船など

松右衛門の考案した船や道具などが数多くあります。嘉兵衛がエトロフの有萌湾に港湾を造った時、この松右衛門の協力を得たといわれています


高田屋嘉平兵衛の事は

司馬遼太郎に依る「菜の花の沖」と言う伝記小説が出版されており、根室の人達の中で多く読まれています


江戸時代後期の商人、回送業。

幕府と結んだ蝦夷地売買、漁場の開拓、アイヌ人への教育、等その果たした役割は実に大きい事です



根室港の弁天島や金刀比羅神社を建立しました。

根室にとってそして失われた択捉の島を語るに、嘉兵衛の存在がいかに大きかったかと考えさせられました。


根室港弁天島


金刀比羅神社から見た根室港


根室金刀比羅神社



根室市金刀比羅神社にある

高田屋嘉兵衛像