本来龍樹は空論であった 無自性
そして世親の依他起性
縁起の法 無自性にして縁起はまた因縁であった
しかし世親の阿頼耶識をどのように理解するか
意識の主体 無自性と主体との相反 世親における依他起性と阿頼耶識とのアポリア(二律背反)である
意識論と実体論
「い」と「ち」 「いのち」の構造論 形相と質料であった
エネルギー保存の法則から言えば 「い」の輪廻転生と 「ち」の分解再生
そして「い」の形相のトポロジーと 「ち」の質料の組み立て論がある
そして「い」の「ひ」の系統と 「ち」の遺伝子の継承
胎児、九週目から二十週目に初期の脳波が現れ、脳細胞の形成は妊娠五ヶ月頃のほぼ出来上がり、二十二週目には大人と同様の脳波が継続的に現れるようになる。
とされるが
脳組織の形成と脳波の発生 脳波と意識 脳組織の形成とともに意識が生み出されるのか
赤子の意識は妊娠五ヶ月から六ヶ月からの胎内与件から始まる。 ただ潜在記憶として意識の表面には現れない。 身体的遺伝子に付帯して気質として表される。そして生後の環境と気質の反応の中に性格が形成されていく。
一般論である
「い」と「ち」 その結びつき 兄弟姉妹 祖先を語る 血縁系統 しかし兄弟姉妹における性格・意識の違い
妊娠時の母親の生活与件の違いか
それに
身体的遺伝子の継承(親と子)と意識の継承は必ずしも結びつかない 反抗期
「いのち」とは その惑星の事象の地平線での「い」の在り方である
地球にあって 水と有機化合物の「ち」にあっての「いのち」である
「い」 息 プシュケ プシュケはソクラテス、プラトンにあって肉体の外にあり アリストテレスでは理性として肉体の内にあった プシュケは動物にあって本能であり 人間にあって理性であった
人間は社会的動物 動物として本能にあり 市民としての社会性にあって理性にある 市民権を持たない奴隷は「言葉を話す家畜」であった
本能は肉体の遺伝と直接関わりを持つが 理性にとって肉体は一次的環境であり 幼児経験の中に補正されていく
ただ理性としての喚起は我の自覚期からである ここで我とはフロイトの本能としての我ではなく 自己を省みる自省としての我である
「い」における阿頼耶識 ユングにおける深層意識の元型 深層意識として私はの過去・現在の時間の幅にある
深層意識における過去識 老人の幼児回帰ではない その壁を越えて前世の記憶が生まれたときから潜み込んでいる
「い」の生まれながらの記憶には前世の記憶が含まれる 前世の記憶としての具象事例が語られる
催眠療法を含む分析心理学
心霊学 古くからイギリスに心霊研究会があったが実証の論理性に乏しく 事例として挙げられるだけである
現世(「ち」界)への「い」の残存 いわゆる幽霊 多くが語られる
「い」界と「ち」界の併行も考慮される
脳科学は勿論心霊学は排除する
私は脳科学の進歩に敬意を抱く 二光子勃起現象を用いた顕微鏡技術 それによって脳医学の可能性が高まった
ただ脳波に意識のすべてをおく学説は受け入れない
顕在意識は意識の氷山の一角にしか過ぎない
私はプラトンの「想起」は採らない 仏教もキリスト教も神仏への帰依であるが 神道は随神の道
そして中今の大事
人間 一過性の時間にあって無常である 無自性にして空
歴史における繰り替えし理論 地球の自転と公転 しかし去年の今の私は今年の今の私とは異なる
一瞬一瞬ごとの変化 移ろいの中に今がある 仏教の一番嫌うのは執着である
しかし ミンコフスキーの時空の観測者は過去と未来を観ていた
意識の連続 時間の幅にあって私は私
三世平等は仏教における重要な悟りの一つである
現在にあって過去未来を観る 過年の権力欲の跋扈跳梁
その流された血と瓦礫の上に どのような国づくりをするのか
積み重ねられた利便性の追求と自然破壊 気象変動に大地は沈み内陸は土が枯れた
「いのち」のあり方 どのように考えているのか
デジタル空間の仮想現実を楽しむ すでに人類は「いのち」の未来を放棄しているのか
効果主義の中に連続性を放棄する しかし離散量 その枠に囲まれた鎖繋ぎ
過去世を背負う 横を向いて過去世を地平線に置こう そしてそれを整理しよう
そして未来世を現世に組み入れるのだ 修理固成 理を修めて固め成す
三世の女神の手を取り合っての踊り 平安と愉楽の踊りであってほしい