家族の分断生活 | 来し方はパラパラ漫画

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1943年ヨコハマ生 振り返れば満足の人生
遊びも仕事も夢も野望も七転八起
つれずれにヒトコマを想起してみti

 

結核療養の教員保養所を出た翌年

長女が小学校へ入学

洞爺村小学校大原分校という

生徒13人教職員のほうが多人数という、

授業は2学年が共に受ける複式授業

 

そんなおり長女は2階の階段から転落

左腕を骨折し

洞爺湖温泉町にある湖畔の「協会病院」に入院

半年も入院した

その後東京の小児専門病院を紹介されて入院んすることになった

これを機会に母と次女を北海道に残し内地へ戻ることになった

 

長女は退院後、私の養母でもあった伯母と生活

生徒数1000人の横浜の緑区都田小学校に転向した

13人の分校から1000人の学校への転向だったが

元気に通学していた

二人の姉妹はこのあと次女が中学生になるまで別居状態にさせることになった

 

私と妻は道玄坂上の山手道に面したOビルの「N通商」の1室を住居とした

 

家族が3所帯に分断の生活になった