先日、修学旅行の超過勤務について書いた

                          これも50年も前の思い出

 

                          学年主任の時、依頼されて

                          PTAの広報誌に寄稿した一文で 

                           修学旅行の意義について述べた

                          少々長文だが、皆さんが経験した修学旅行について

                           先生の思いを理解していただければ幸いである

                           『修学旅行から帰った生徒の感想の多くに、

                           「もう一度行きたい」がある。

                            何度、子供たちを引率したか、

          はっきりしなくなった私の感想も同じである。

          生徒たちのように修学旅行に、

          もう一度行きたいと思わないが、

          奈良・京都には何度でも行きたいと思う。

 

          修学旅行時、先生は見学ができない

          先生は、常時、生徒を見ていなければならない。

          ガイドさんの説明も、

          生徒が真剣に聞いてくれることを願うだけで、

          ほとんど記憶にない。

          もっとも、深夜の巡回のための睡眠不足で、

          朦朧としている所為もある。

          毎度の修学旅行が、このような次第で恥ずかしい話であるが、

          今度の修学旅行で初めて知ったことがある

          それは、ごく常識といってよいことだろうが、

          奈良の寺院は七堂伽藍で庭がなく、

          京都の寺院の多くは、枯山水等の庭園をもつということである。

          数えきれないくらい行っているから、

          奈良・京都には詳しいと思われそうだがとんでもない。

          このように知らないところ、知らないことが多いから

          行ってみたいというのではない。

          歴史や美術に興味があるからでもない。

          そこにある建築や仏像や庭園を前にすると、

          訳のわからない感慨を受けるからである。

          それは祖先に対する畏敬かもしれない。

          あるいは、それらを創った民族の一員であるという

          誇りかもしれない。

          生徒たちが、もう一度行きたいと思うのも同じような

          ことからだろう。

 

          「百聞は一見に如かず」。このような一見によって生徒たちも、

          そこにある文化価値を直観したのである。

          そして素晴らしい可能性をもつ生徒たちは、

          文化価値創造の意欲を触発されたに違いない。

 

          ここに、あわただしかった三日間の修学旅行の意義がある。

          可能性に満ちた子供たちと可能性に乏しい自分との差はあれ、

         「もう一度行きたい」と思う文化への思慕の念においては、

          変わりなく人間である。』

         (自画自賛)

          国語の先生が「文才もあるのね」と評価してくれた

          起承転結のはっきりした典型的な構成の文章である。