24/8/1 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

分け与える

社会的な関係性から分離して、個人の世界というものを思考するとき、人間性への関係という新たな世界を求めることになる、人は自分の心の世界という空間が必要であり、心とは何か、この問いは宗教的であり哲学的な問いであり、社会的な合理主義からはその空間(ディスタンス)が覆い尽くされている。それは地球の闇の部分(夜の言葉)であり、事象として指し示すことのできない影絵(コピー)ということになる。そして神の眼差しは見えなくても存在しているという前提であり、私たちの信仰の世界を支えてくれている。それは、光()と影()が一つの存在を支えているという認識の世界となる。そして、神とは光のみの存在として、物()である私たちを照らしている。

 

あなたがたが私とつながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子になるなら、それによって私の父の栄光をお受けになる…ヨハネ15:7~8

 

宗教が外なる言葉に依存する偶像化なら、イエスの内なる世界は破壊され、十字架に召されることになる。今回のオリンピックでは芸術監督(自由な発想)が宗教団体から脅迫を受けていると聞く。私たちにとってイエスキリストとは自由な発想の持ち主であり、豊かな個性の多様性(光と影のファンタジー)を支持してくれる。アートとはイメージを公けに分け与えるという意味であり、オリンピックの演出のアートを楽しむ世界の一人一人の名もない私たちの内なる感情(共通感覚)の意味となる。

 

これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いのために愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない…ヨハネ15:11~14

 

宗教団体の脅迫する側(加害)には個々の命の危険はない。それは集団(匿名、プライバシー)であり、偶像という固定観念(マインドコントロール)の集団を意味する。そして、世界では宗教戦争によって多くの人命(プライバシーの侵害)が失われている。

 

24/7/21ブログ参照