分け与える
社会的な関係性から分離して、個人の世界というものを思考するとき、人間性への関係という新たな世界を求めることになる、人は自分の心の世界という空間が必要であり、心とは何か、この問いは宗教的であり哲学的な問いであり、社会的な合理主義からはその空間(ディスタンス)が覆い尽くされている。それは地球の闇の部分(夜の言葉)であり、事象として指し示すことのできない影絵(コピー)ということになる。そして神の眼差しは見えなくても存在しているという前提であり、私たちの信仰の世界を支えてくれている。それは、光(昼)と影(夜)が一つの存在を支えているという認識の世界となる。そして、神とは光のみの存在として、物(肉)である私たちを照らしている。
あなたがたが私とつながっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、私の弟子になるなら、それによって私の父の栄光をお受けになる…ヨハネ15:7~8
宗教が外なる言葉に依存する偶像化なら、イエスの内なる世界は破壊され、十字架に召されることになる。今回のオリンピックでは芸術監督(自由な発想)が宗教団体から脅迫を受けていると聞く。私たちにとってイエスキリストとは自由な発想の持ち主であり、豊かな個性の多様性(光と影のファンタジー)を支持してくれる。アートとはイメージを公けに分け与えるという意味であり、オリンピックの演出のアートを楽しむ世界の一人一人の名もない私たちの内なる感情(共通感覚)の意味となる。
これらのことを話したのは、私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。私があなたがたを愛したように、互いのために愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上の大きな愛はない…ヨハネ15:11~14
宗教団体の脅迫する側(加害)には個々の命の危険はない。それは集団(匿名、プライバシー)であり、偶像という固定観念(マインドコントロール)の集団を意味する。そして、世界では宗教戦争によって多くの人命(プライバシーの侵害)が失われている。
- プライバシーとは元来「私生活」「私事」を意味する言葉であるが,社会生活の複雑化・情報化に伴い,他人からの距離感(distance)が重要な利益と考えられるようになり,この利益が人格権として「プライバシーの権利」と呼ばれるようになった。具体的には,私生活が他人によってのぞき見されないこと,私事が他人の表現行為によって公開されないこと,私事を他人に営利的に利用されないこと,この権利をより積極的に捉えて,自己に関する情報を自らコントロールすることもプライバシー権に含まれると考えられている。憲法13条、生命・自由・幸福追求の権利に基礎づけられた権利として,また司法上も不法行為に対する被侵害利益として判例によって認められている…コトバンク
24/7/21ブログ参照