24/7/30 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

ガンジガラメ

世と私の関係はヨコ糸(自他の混交)であり、相手の言葉にコントロールされていく日々を実感している。それは互いの間の構造(ネットワーク環境)てあり、私の意思というオリジナルな言葉を、相手はスマホを見ながら時代のコピーを私に強制する。私は〝手紙〟という表紙(タテマエ)と中身(ホンネ)に分離した論理を用いようとするが、彼らは単一なメール(既成事実)によって報告するだけの意味でコミュニケーションをしている。そのような環境て、私のコミュニケーションの手段は「沈黙」ということになる。それは表層(グーグルアース)という見える世界(利便性)に対して、私は見えない世界(思考空間)に自らを置いている。

 

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由は、肉(客観という、自他の混交)に罪を犯せる機会とせず、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされているからです。だが、互いに絡み合い、共食いしているようなら、互いが滅ぼされないように注意しなさい…ガラテヤ5:13~15

 

世に従がい、私は外観という封筒の言葉によってデジタル環境を泳いている。それは相手の価値に従がった貨幣価値であり、日々の生活のための手段(ルール)を遵守しているに過ぎない。そこには、私のオリジナルが無効にされている。それは肉(外観)という言語の海というヨコ糸によってガンジガラメの日々を生かされていることになる。

 

私が言いたいのは、こうゆうことです。霊の導きによって歩みなさい。そうすれは、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、零の望むことろは、肉に反するからです。肉と霊が対立し合っているので、あなてがたは、自分のしたいことができないのです…ガラテヤ5:16~17

 

霊の言葉はタテ糸であり、私たちはヨコ糸とタテ糸の接点という場を自分としている。接点とは、関係性であり、自分と相手は相対の関係に置かれていくこになる。相対とは、物理的な存在を通した精神作用であり、互いの間は言語の海ではなく、ディスタンスという空間を前提とした関係性を求め合うことになる。

 

二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イメージ)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈)するため、自らの持っている感動力を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング

24/7/21ブログ参照