24/7/9 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

関係性を生きる

私にとっての信仰のイメージは、互いの間の透明性であり、神の御心であり、そして個と個の関係性を育てる空間(それぞれの個体は間によって生かされている)を用いた時間(生命体)ということになる。そのような前提を消して、互いの間に自他の混交という既成事実によって覆い尽くしているのが社会依存の立場ということなる。社会依存の人々には、個体への世界観がなく、時代が提供している夢(メディアメッセーージ)を前提にした自己表現をしていくことになる。彼らの夢は政治的(主従関係)であり、私たちの夢は神の御心の実現(個々の差異の理解)ということになる。それは相手の心への奉仕であり、相手の夢への結び合わわせるパターンということになる。

 

テトスについて言えば、彼は私たちの同志であり、あなたがたのために協力する者です。これらの兄弟について言えば、彼は諸教会の使者であり、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことで私たちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。聖なる者たちへの奉仕について、これ以上書く必要はありません…第二コリント8:23~9~1

 

自らの内なる世界への相手からのメッセージとして、私たちは聖書に出て来る使徒たちの言葉に耳を傾けていく。それは外と戦って得た神からのメッセージ(霊の受肉)として受け取ることになる。それは無限に降り注がれている何かの感受(インスピレーション)を通した造形(ロゴス)であり、私の日々のブログの文言のように、とめどなく文章化(関係性)していく行為ということになる。

 

つまり、こうゆうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです…第二コリント9:6~7

 

社会を利用する既成事実とは、互いの間に機能(コンピュータ)する既存の文章の奪い合いであり、数字に変換される記号の世界ということになる。それに対して私たちの間とは透明(神の御心)であり、霊を通して与えられる情感の造形(神の愛)ということになる。

 

「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみを結ぶ実を成長させてくださいます…第二コリント9:9~10

 

無機質な記号の交換(流通)という生命なき物の世界ではなく、個性と個性の間(メタファー)という隠喩の世界(霊の世界)の造形が問われている時代ではないだろうか。

 

隠喩への動機

君は秋の木陰が好き、なぜってすべてがなかば死んでいる。風はまるで足をひきずるように葉陰を抜け、そして言葉が意味もなく繰り返される。同じように、君は春にしあわせだった。四半分の物の半分の色で、ちょっぴり明るくなった空、消えてゆく雲、たった一羽の鳥、ぼんやりした月、ぼんやりした月が照らすぼんやりした世界。表現し尽くすことなどあり得ない物(コンピュータ)の世界。そこで君自身は全き君自身であったことなどない。そうなれたくもないし、そうあるべきではない。

変化に浮き立つ気分がほしい。隠喩への動機が

真昼の重みにたじろぐから、存在のイロハに、はつらつとした健康な気性、赤と青のハンマー、強烈な音、暗示に逆らう鋼鉄、鋭い閃光、生命の、傲慢な、破壊的で、支配的な何か

…ウォーレス・スティブンス

24/7/6ブログ参照