24/6/25 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

起承転結

私たちの側のコミュニケーションは相対であり、自分()と相手()の内なる世界(霊的存在)である〝承〟という精神(ディスンス)を大切にしている。それは自分とはなにかという自問を通した相手への承認であり、自分と相手という個々の異なる意見への接触(思考空間)を求めている。それに対して私を見ていないと感じた〝壁(一般化された匿名)〟に対して問いかけていく。社会的な相手とは、起結という外側の表現であり、悪意に満ちた相手の承転(内なる心)とは、真の内なる世界を消した外の理屈の世界であり、社会のあげあし取りの表現をする。たとえば、今回の都知事選のポスターに対する社会的な屁理屈を実行して、有権者の常識(起結)を混乱させるような場(所有権)の独占。その混乱を楽しむように、自分の知的好奇心の優越感にしたっている。私は常識を前提とした表層の彼らの起結(ウロボロス)という表現を消し、相手の〝承〟に問いかけていく。

 

主にのみ、私は望みをおいていた。主は耳を傾てて、叫びを聞いてくださった。滅びの穴(悪意にちた承)、泥沼から私を引き上げ、私の足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、私に新しい歌を、私たちに神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に寄り頼む…詩編40:2~4

 

主を信じるとは空白(互いの間)を信じることであり、空白という主の心に対して、自らの心を使った時間を表現していく。それは精神作用という〝時空間〟を表現するものであり、承を転じさせるイメージを創作していくことになる。アート感覚とは、起結の現象(見える世界)に対して、承転(見えない世界)の心象ということになる。

 

私の神よ、主よ、あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。私たちに対する数知れない御計らいを私たちは語り伝えていきます。あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も求めず、罪の代償の供え物を求めず、ただ、私の耳を開いてくださいました…詩編40:6~7

 

信仰を通した神とは、互いの間(思考空間)であり、神の御心からのメッセージに耳(心の開閉)を開かなければならない。

 

  • 心象とは、心に浮かぶ姿や、心に描き出される形(イメージ)のことを指す言葉です。「しんしょう」と読みますが、同じ読み方をする「心証」とは意味が違うので使い方には注意しましょう。似た言葉に「心像」や「印象」などもありますが、それぞれに意味が異なります。
  • 我々を傷つけ、せき立てる、敵意に満ちた、得体のしれぬ日常生活から、読書のおかげてしばしば逃避することができるのだから、読書は一種の浄めの儀式、多くの場合、一連のささやかな慣習的な手続きによって補強される浄めの儀式だということになります。このことから「白紙で覆ってしまう衣」とでも呼びうるものが、我々の社会における読書という名の儀式のなかで果たす役割も明らかになります。我々の書物が紙(空間)が白いのは、書物(心象世界)が我々に与えてくれる、此処とは違う他処が、読書のページをよぎっていく動きによって、いわば白さの滲み込んだもの、洗礼を施されたもののようにして、我々の前に現れてくる。ときには、いまのあるがままの世界を厭う気持、世界の変革することの困難を前にしたときの失望落胆があまりにも大きくなってしまうため、読書は、むしろ好んでこの白さの宙吊りにうちとどまって、そこでようやく安らぎを見出すこともある。そうなると、書物のなかのこれらの記号のおかげて姿を現すものは、もはや、白い光を氾濫させるためのきっかけと見なされるでしょう…Mビュートル

24/6/15ブログ参照