24/6/9 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

御心によって自らの道を拓く

信仰の心は神の光を信じる生き方であり、その結果、神の光を輝かすための闇が目の前に置かれることになる。世の側の人たちの既成事実で語られる言語の海(画一化)であり、彼らは一つの価値(時代の奪い合い)に対して敵と味方に分裂し、常に覇権という全体主義を夢見ている。神はその海を二つに割り、私たちを真中の新しい道に導いてくれる。

 

主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた。戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消し去られた…イザヤ43:16~17

 

新しい道とは、過去にはなく、今から先の未知を指し示す。それは私の存在(過去の影絵)は世にはなく、互いの間という白紙の世界ということになる。それは肉を消した精神作用であり、聖と俗の間に新しく描かれていくアート感覚ということになる。

 

初めからのことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか、私は荒れ野に道を敷き、沙漠に大河を流させる…イザヤ43:18~19

 

神か造られた自然を食い尽くす文明の利器は、互いの間に現象している出来事と物事であり、それを利用して自分の利権を貪るっている有識者たちは、私たちの道を知らないし、知ろうともしない。それは利権をゼロにされる恐怖(悪意)であり、自らの恐怖を人々に与え、恐怖に負けていく仲間(神が不在の心)を増やしていく。信仰を通して神に出会えるのはゼロ(互いの間)であり、世の知識で理論武装しいる相手ではない。

 

私はこの民を私のために造った。彼らは私の栄誉を語らねばならない。しかし、ヤコブよ、あなたは私を呼ばず、イスラエルよ、あなたは私を重荷とした。あなたは羊を私への焼き尽くす献げ物とせず、いけにえをもって私を敬おうとしなかった。私は穀物の献げ物のために、あなたを苦しめたことはない。乳香のために重荷を負わせたこともない…イザヤ43:21~23

 

自然に身を置くという幼子の心が信仰の原点であり、大人たちという思惑(忖度)を通した黒い心(世というメビウスの環)によって、自己実現(人工世界)に何の意味があるのだろう。暗黒を支配する支配者には偶像の神(自分に従う群衆のための知識)が必要であり、透明な神の御心を消し、聖書は屈解されていき、いまのイスラエル国となってパレスチナを絶滅させていく。

 

あなたの始祖は罪を犯し、申し立てて、あなたを導く者らも私に背いた。それゆえ、私は聖所の司を汚し、ヤコブを絶滅に、イスラエルを汚辱にまかせた…イザヤ3:27~28

 

  • 科学の知が冷ややかな眼差しの視覚の知であるのに対し、パトス(痛み)の知は身体的、体性感覚的な知であるということができる。ここで体性感覚というのは、触覚、筋肉感覚、運動感覚を含む全身の基礎的な感覚である。内感覚(小宇宙)といわれるコスミックな感覚もこの体性感覚にほかならないし、五感の統合された、生き生きとした全面的な働きとしての共通感覚も、この体性感覚の上に則っている。そこでは視覚も体性感覚と結びつき、むしろ本来的にいっそうよく、共通感覚的に働くのである…中村雄二郎
  • 神話的思考とは、太陽をこの私の身体的自然、その有機的具体性において解釈するものであり、そのなかで太陽と私との関係は意味的であり、かつ親和的である。自然科学的に把えられる太陽は、私が存在しようとしまいとそこにあるような物質的対象性であり、そこから得られる知識は私の生と死を豊かにするものではない。この場合、太陽は単なる物質の構造、つまり無意味だからである…笠井潔

24/5/25ブログ参照