24/6/8 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

恐れを消した信仰

心を開くためには、互いの間(空白)を互いが求め合わなければならない。それは世(言語の海)を消した夜の言葉ということになる。私たちは昼に沈黙して過ごしている。彼らは私たちの頭の上を覆い尽くすようなデジタル環境という人工的な言語(既成事実)を通して、互いに所有の権利の奪い合いをしている。私たちは所有されたりしたりする貨幣価値から逸脱した世界を自らの生き方としている。貨幣(二次元)を消した我が身とは三次元であり、命の営みとはなにかを、森羅万象(神が創造した自然界)のなかを呼吸の価値によって日々を過ごしている。イエスとは私たちにとって、貨幣を消した身体そのものを意味する。

 

それから、イエスは弟子たちに言われた「だから、言っておく。命のこと何を食べようか、体のことて何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ…ルカ12:22~23

 

世から見た空白とは、身体という裸の姿(三次元)であり、外からの刺激による体内から発生する言葉を意味する。今、現に起こっている状況を把握して、自らの生き方を瞬時(インスピレーション)に実行するという生き方てあり、自然界の動植物たちの営みは、自らの生存をかけて、独自の環境世界を形成している。神は人間も自然界で生きているのであり、自然から逸脱した人工世界そのものが神への背信行為であり、背信を明確にしていくイエスキリストの言葉は、彼らにとって死(所有物を奪われる)を意味する。それは納屋も倉も持たない生き方という裸の心(空白)を指し示されることになる。

 

烏のことを考えて見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほと価値があることか。あなたがたのうちのだれかが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか…ルカ12:24~25

 

信仰を持つとは、神の言葉(ロゴス)によって裸の我が身が守れることであり、聖書の言葉を通して、人工的なデジタル言語が私たちに手出しができないということになる。相手は私を通過するか、私の行為に刺激を感じるかの二者択一ということになる。人工(ソロモンでさえ)という神の影は、神の光(自然界の有機的なシステム)の前に退くことになる。

 

野原らの花がとのように育つが考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった…ルカ12:27

 

しかし、我々の感覚器官が知覚(行為、インスピレーション)に、運動器官が作用(行為、自らの意味の造形)に役立つものだとの考えを持っている人はその機関士たちがちょうど我々自身が我々の身体と組み込みになっていると同じように、その器官のなかに組み込まれているのを見い出すことであろう。だが、そうなれば、その人はもう動物を単なる客体としてではなく、知覚と行為と作用の行為とをその本質的な活動として保持する主体とみなすであろう。こうなれば、環境世界へ通じる門はすでに開かれたのである。なぜなら、主体が知覚するすべての物が知覚世界となり、主体か行なう作用のすべてがその作用世界となるからてある。そして知覚作用と作用世界が共同でひとつのまとまりのある統一体(一輪の花)、つまり環境世界(循環しているシステム)を造り上げるのである…ヤーコブ・フォン・ユクスキュル

24/6/2ブログ参照