24/6/3 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

(空白)は平等

(空白)と自分(精神作用)の関係は、運動の造形であり、その結果、固定()の意味(既成事実)を消していく。それに対して世(固定の価値)を通した人々は固定を常識として自らの立場を主張していく。社会生活を営むことは、固定された地図化という共同幻想(ネットワーク環境)の上に自らの立場を建設していく。組織内の奪い合いという戦いを征した結果が肩書となり、相手に隙を見せれば引きずり降ろされる。都知事の学歴詐称の問題も、敵対する相手の攻める材料として提示される。それに対して、私たちは疎外(無知)という生命現象を前提として生き方をしている。社会を消すとは学歴(世の価値)を消すことになり、相手が攻める対象物(地図から消された私)が不明という立場を相手に示していく。それがイエスの教えであり、私たちは地下に隠された心(一粒の種)を通して、世を暗闇(何も見えない)として理解していく生き方が与えられる。それは幼子の心(無知)を通した感性というこになる。

 

そのとき、弟子たちがイエスにところに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた「はっきり言っておく、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない…マタイ18:1~3

 

生命現象とは森羅万象を支配する神の御心ということになる。その生命の一つである人間も、神の御心によって生存がゆるされているという前提が信仰の意味であり、そこには人間の知識というものが消されている。知識を消された心によって既成事実の世界は闇にしか過ぎない。無機質なな数値化の世界(デジタル環境)であり、欲望が渦巻く主権の奪い合いのための殺し合いの世界(地球の各地で勃発している戦場)であり、権力(株価)に群がる利権者(投資家)の群れという現状を白紙の心の子供は感じている。

 

自分を低くし子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。私の名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである…マタイ18:4~5

 

イエスキリストに受け入れられるとは、我が内にキリストが住まわれる意味であり、心を通してすべての世界が展開するという、時空間を通した四次元世界から世を俯瞰(身体感覚、文法のDNA、構成のノイロン)する意味となる。

 

  • 言語は自然に生じてくる。我々は文法のためのDNAを持ち、文章構成法のためのノイロンを持っている。言語をなくすことなどできない。人間は変化しながら、新しい道具や都市をいたるところにつくりだして、一つの文明から次の文明へと、這うようにして進んで行く。単語(人間)はそれ自体驚異である。どの単語も、その用途に合うように完全な工夫がこらされている。古くて力強い単語(子供のような白紙の心)ほど膜(周辺)に包まれている。一語からなる詩のように、何層もの違った意味で包まれているのである…ルイストマス

24/5/31ブログ参照