24/5/31 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

善悪の判断

世は法と秩序を前提にした善悪を法的に裁く制度によって、一般化の言語環境を用いることになる。それに対して信仰(心の世界)を通した悪は闇であり、善は光としている。見えない世界(他者の心)と見える世界(神の御心)であり、我が身(存在)を通して、二つの心に分裂しているという認識を持つとき、闇(この世)を歩く生き方()を通して、内なる神の御心の明確さが求められる。世は心を問題にしない。それは信仰にとって闇(他者の心)の世界というこになる。詩編作家は闇の人々を明確に示される。

 

彼らは、闇と死の陰に座る者。貧苦と鉄の枷が締めつける捕らわれ人となった。神の仰せに反抗し、いと高き神の御計らいを侮ったからだ。主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。彼らは憐れ助ける者はなかった。苦難の中から、主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみに救いを与えられた。闇と死の陰から彼らを導き出し、束縛するものを断ってくださった…詩編107:10~14

 

信仰の内なる光によって明確にされる闇の世界であり、世に依存し、日々の束縛の正体を知ることで、そこから解き放たれる自分の内なる勇気というものを神から与えられる。たとえば、パウロとシラスは民衆の心の問題に問いかけたという世からの罰として牢獄に入れられることになる。それは内なる問いであり、外の闇を指し示したことになる。私たちにとって救いとは、自らの心に内に気づくことを意味する。

 

彼らは、無知であり、背きと罪の道のために屈従する身となった。どの食べ物も彼らの喉には忌むべきもので、彼らは死の門に近づいた。苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみに救いを与えた。主は御言葉の遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された…詩編107:17~20

 

私たちは信仰を通してロゴスというものを与えられている。それは世の言葉を闇と光に分類する神からの知恵(賜物)であり、空間(宇宙)という神の御心を時間(小宇宙、生命の営み)として生きる精神作用であり、生命を貨幣へ変換する世の価値とは相容れない世界観ということになる。

 

  • すべてがすべてのなかに、ひとりひとりがすべての人のなかに、すべての人がひとりひとりのなかに、すべての存在がそれぞれの存在のなかに、それぞれの存在がすべての存在のなかに、すべてがそれぞれのなかに、それぞれがすべてのなかに、すべての区別は心である。心によっでり、心のなかにあり、心の一部である。区別がなければ区別する心もないDHレイン
  • ロゴスとは光である。そして人間の心の中に持っていると思われる嫉妬心や怨念などの汚い根性は闇である。闇というのは真空と同じくそれ自体は存在ではない。光が欠如しているか、もしくは不足している状態だ。従ってどんな悪人と言われる人でも、それは光に恵まれなかっただけのこと、その人を愛と信仰を浴びせ、理を以って説く、つまり、ロゴスを与えれば人間本来の姿、つまり真の人間になっていくのだ…会田雄次

24/5/25ブログ参照