24/5/23 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

土壌と種

情報化という現象は、表に出された文字(記号)であり、世の教育によって、記号の格差が社会で生活する過ごしやすさの基準とされている。基準値を前提とした、メディアメッセージは現象となって人々の生活模様(流行)を左右していく。時代として流れていく日々の人工的な言語環境から、私たちは自然を前提にした自らの言葉というものを探しながら生きている。人工と自然という言語(既成事実)と言葉(何かが違うという感覚)との対立。それが私の表現であり、私が示す〝何かが違う〟という相手が依存している前提に対して問いかけていくことになる。

 

私はまことのぶどうの木。私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる…ヨハネ15:1~2

 

現象を前提にしている人工的な環境とは、土壌という夜の言葉が存在することを知らない。それは神が不在の心であり、表層に漂う日々の現象に右往左往するような毎日ということになる。多勢の言動(メディアメッセージ)に対して付和雷同のように従っていく。それに対して、私たちは神の御心という空間が与えれている。それは日々の〝手入れ〟という透明な手によって心を整えられるという〝実感〟であり、私のブログの文章はそのような手入れから発せられていくことになる。

 

私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人とつなかっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである…ヨハネ15:5

 

時代を価値にして日々を過ごしている人々には情感という心の実が消され、無機質な物に取り囲まれたデジタル環境によって語っている。彼らは土壌も種も知らない。だから、自らの心の内(秘められた世界観)が育たない。そして、時代という日々を業火(心に因果の混乱が生じニュースの種となって事件を起こす)に焼かれていく人生ということになる。

 

私につながっていない人かいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして集められて焼かれてしまう…ヨハネ15:6

 

私たちの信仰は外から隠されている。そして夜の言葉(現象に隠された忖度という土壌、暗示的なイメージによって告発)を通して、葛藤し、自らの種が生長していく。私たちの命は日々の出来事と物事によって活性化(生きた言葉)していく。

 

私が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛にとどまっていることになる…ヨハネ15:10

 

  • 二種類の言語は関係は、逆向きに対立する。観念語(アナログ)を用いる言葉は逆にその映像喚起力を利用することによって、再び感覚性(情緒)を取り戻し、自己を豊かにすることができる。その場合、詩に近づくのだ。これに反し、映像は、自己を知的(デジタル)なものにしようと試みるとき、貧困にならざるを得ない。なぜなら、観念による言語は暗示的(イメージ)なものを利用するこによって、いわば自己の周囲の輝きを増し、その有効範囲(水の波紋)を広げるのに対し、映像による言語は、前者に対抗(既成事実による解釈)するため、自らの持っている感動力を脱ぎ棄てなければならないからである…ルネ・ユング

24/5/19ブログ参照