24/4/21 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

妄想と空想の違い

私たちは信仰を通して〝空想〟という白紙の上に自らの時間(命の営み)を置くという新しい世界を展開していく可能性に満ちている。それに対して信仰なき現実に対して〝妄想〟を抱く人々は、自らの自我に対して、社会に対する〝怨念〟という黒い得体の知らない妖怪が自らの心に住み着き、自らが妖怪に変身していくことになる。私たちは、現実という科学的て無機質な言語の海(合理主義)に置かれている。そこでは雄弁な人々が理路整然と語る言葉(デジタル)に、多くの人々(数値化されたイイネ)が従っていく。私たちは数ではない、一人一人が自我(誕生から死までの旅路)という心を持っている。そして、現実は、数値化に覆い尽くされて、自我の怨念だけが、日々、ニュースとして吹き出され〝事件〟として私たちに心の姿を代弁(カタルシス)してくれている。私たちは自らの信仰を通して怨念(自らの心にわきあがる黒い霧)を消す日々を過ごすことができる。

 

そのとき、弟子たちがイエスのことろに来て「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこでイエスは一人の子供を引き寄せ、彼らの中に立たせて、言われた「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなけければ、決して天の国に入ることはできない…マタイ18:1~4

 

大人と子供の違いは社会的な立場という影(既成事実)であり、社会への責任への有無であり、社会とは貨幣によって営まれている現実主義の天国ということになる。透明な心(空間)にとって、貨幣という重荷に押し潰され、社会という現実に押し潰されているという心理が日々の生活(心ないデジタル世界)の影に襲い掛かるということになる。だが、子供には社会というものが消されている。それは現実なき幸福な時を与えられているということになる。イエスキリストは、現実(ファリサイ派、律法主義)によって十字架に召されたという意味であり、このエピソードで「心を入れ替えて」と弟子たちに念を押す言葉は、自らの空想(白紙)を示されたことになる。空想とは読んて字の如しに「空」であり、イエスキリストの土台(白紙の紙)に、私たちは命の時間(生命の営み)を自由自在に描く世界を望んでおられるということになる。

 

私の名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである…マタイ18:5

 

私にとって信仰とは〝空想〟であり、時代の言語の海という大人たちが体系化された学問的な論理(多種多様に分裂し細分化していく膨大な図書機能)は、自己形成という社会的な立場(ファリサイ派、律法学者)にとって有効な手段に過ぎない。それに敗北した妄想(悪の諸霊)がニュースな日々を事件して表現されていく。

 

私たちの戦いは、血肉を相手にするのではなく、支配と権威、暗闇の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです…エフェソ6:12

 

  • 我々を傷つけ、せき立てる、敵意に満ちた、得体のしれぬ日常生活から、読書のおかげてしばしば逃避することができるのだから、読書は一種の浄めの儀式、多くの場合、一連のささやかな慣習的な手続きによって補強される浄めの儀式だということになります。このことから「白紙で覆ってしまう衣」とでも呼びうるものが、我々の社会における読書という名の儀式のなかで果たす役割も明らかになります。我々の書物が紙(空間)が白いのは、書物(たとえば、空想による銀河鉄道)が我々に与えてくれる、此処とは違う他処が、読書のページをよぎっていく動きによって、いわば白さの滲み込んだもの、洗礼を施されたもののようにして、我々の前に現れてくる。ときには、いまのあるがままの世界を厭う気持、世界の変革することの困難を前にしたときの失望落胆があまりにも大きくなってしまうため、読書は、むしろ好んでこの白さの宙吊りにうちとどまって、そこでようやく安らぎを見出すこともある。そうなると、書物のなかのこれらの記号のおかげて姿を現すものは、もはや、白い光を氾濫させるためのきっかけと見なされるでしょう…Mビュートル

24/4/15ブログ参照