24/4/6 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

練習と訓練

私の主観では、信仰とは試行錯誤の練習(自己鍛錬)であり、社会に倣っていく生き方は訓練であると思っている。練習は我が身を整えるための内なる葛藤であり、訓練は集団行動のために自らを消した外の自分(客観)を通して、組織全体を整えるという意味として受け取っている。それは宗教(教義を通して一つの組織)と信仰(自分の内なる世界観)という区別をしている。

 

主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた「私の僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立って、ヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい…ヨシュア1:1~2

 

ヨシャアは兵士(肉体)であり、聖職者(専門知識のデジタル知識)ではない。神は言葉で民を導くという方法(モーセとアロン)ではなく、行動力(心の勇気)を通して、民を率いる方法を示されることになる。多くの人々は外の理屈を用いて、行動しないための言い訳をする。それは集団に依存(教義への理屈という壁)を通して自分を正当化しているに過ぎない。

 

一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はいないであろう。私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは私が先祖たちに与えると誓った土地を、の民に継がせる者である…ヨシュア1:5~6

 

集団のための自分は、有識者たちの知識(世の価値)を追随することによって既成事実を共有する人々とともに集団化し、そして群衆の一人(記号)となっていく。それに対して内なる自分とは、世の価値から消されている世界であり、群衆のなかに自らの価値(存在感)を通して生きていくことになる。外の知識を顧慮(相手の言い訳)して、私は相手に問う「あなはなぜ行動をしないのですか」と。私にとって神は外に不在であり、自らの内なる心を支える言葉として、相手に対して、勇気を持って行動していく。

 

私は強く雄々しくあれと命じただはないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたはどこに行ってもあなたの神、主は共にいる…ヨシュア1:9

 

私はヨシュアのように、宗教的な知識はゼロ(讃美歌ではなく流行歌)にして相手に対して行動していく。私のブログには宗教色(世には膨大な数の宗派が林立し、政治家のように信者を増やそうとしている)を無色(白紙)にし、ただ、ヨシュアのように文章という行動力(生み出すという造形能力)によって相手に対して対話(この文章どう思う、未知の世界への指針)しようと試みている。

 

  • テクノロジーにしっかりと直面ではるのは、五感の知覚を事態の変化(アート感覚)に応じさせることに習熟した真の芸術家である…マクルーハン
  • 共通感覚とは、他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己の能力を置くことのできる行動力である…カント
  • マトリックスとは、元来「生み出すもの」を意味する言葉である。この言葉が指す具体的な事象・事物については、本来は「子宮」を意味するラテン語(< Mater母+ix)に由来するMatrixの音写で(英語では「メイトリクス」)、そこから何かを生み出すものを意味する。この「生み出す機能」に着目して命名されることが多い。また、子宮状の形状・状態に着目して命名される場合もある…ウィキペディア

24/3/26ブログ参照