24/4/2 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

自由と摂理

社会は人々と共同のルールによって集団への秩序を維持している。集団は組織の法のもとに、自らの立場を依存して日々を生活している。そこには、個人の世界が消されている。だが、神とは、個人のための生命というものを基準に、一人一人の生き方をアドバイスしてくれる。それは十人十色であり、それぞれの異なる世界観(個性)というものを神からの賜物として与えれている。私は今でも人生の放蕩息子(自由を求めてさ迷う)であり、社会(貨幣)によって無一文にされ、放置されることになる。

 

何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こり、彼は食べるもものにも困り始めた。そこで、地方の住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも、腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった…ルカ15:14~16

 

個人の思いというものは人には知ることができないということであり、多くの人々は思いを忖度という自己都合(社会的な立場)に使っていく。だが、個人の思いを汲んでくれるのが神であり、命の源である摂理というものを通して、命の化身である我が身を救ってくれることになる。私たちの心は貨幣と命とに分裂しているという認識に立つとき、初めて真の自分の対面することができる。

 

そこで彼は我に返って言った。「父のところては、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどのパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、

父のところに行って言おう「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格がありません。雇い人の一人にしてください」と…ルカ15:17~19

 

世のルールに対して神の摂理という二つの決まりを自らの内に認識するとき、自由への苛酷な戦いが心のに起こることになる。社会は集団であり、そこにに個人の意見など入る余地がないということになり、私たちは互いの間に〝差異〟という世界を用いて、二つの言語を見極めていくことになる。そして、私は私(灰色の言葉を使わない)であり、世(混沌の集団化の一員)ではないとはっきりとイメージ(変人扱い)で示していくこになる。

 

  • 灰色の紳士はふいに口をつぐんで、モモをまじまじと見つめました。彼は再び話し始めましたが、その様子は話すまいとしても言葉のほうが勝手に出てきてしまって止めようがない、といった様子です。「我々は正体を隠しておかなくてはならないんだ」と、遠くから響くように声が聞こえました。「我々がいることも、していることも、誰にも知られてはいけない。我々はどんな人間の記憶にも残らないように気をつけ、知られていないでいる間しか、仕事ができない。人間が生きる時間を一時間、一分、一秒とむしりとるんだからな。人間が節約した時間は人間の手に残らない。我々が奪ってしまうのだ」…ミヒャエルエンデ「モモ」より
  • 「社会の大衆化とは、中間的で自律的な共同体が弱体化し、解体して、裸で放り出された個人と、国家という茫漠として抽象的な社会との間に、ほとんどなくの遮蔽物もなくなった状態にほかならない。このような状態の原因はテクノロジーの空前の発展、高度の工業化であり、人類の歴史に前例のない空前の人類の大移動、大都市への急激な集中をらたらした茫漠(精神の砂漠)の地に、たった一人、根無し草のようなも裸の個人として放り出される。それに追い打ちをかけるようにマスコミュニケーションがブルドーザーのような平均値(画一的常識)を推し進め、均一化(メディアメッセージ)から漏れてしまう人々を変人あつかいにして排除(私のブログ)していく…安西徹雄
  • 「疎外」というのはすぐれて哲学的な概念であるが、この概念は、現代社会において人間の状況をあらわすシンボルとして広範な人々の間で取り上げられている。一つの哲学的概念が広く社会的なシンボルとして機能することはめったにないが、その概念が哲学的な問題を表現しているばかりではなく、重要な社会的な問題を表現しているからであるに違いない。現代社会のなかで生活するすべての人間が感じている切実な問題として我が国においてばかりではなく、資本主義や社会主義においてさえも、社会的な声として機能している…竹内良知

24/3/31ブログ参照