24/3/31 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

イースター

句読点という考え方は、一つの文章の結論を迎え、その文章に依存していた人々に絶望(物語の終り)を与えるという事実(肉なる命の営み)を見せられることになる。それは私たちに示された神からのメッセージであり、偶像(見えるイエスキリスト)に集められた弟子たちは、その結果をすべて無効にさせられることになる。そして残されたのは真のイエス(ロゴス)であり、創世記から黙示録まで記載された聖書に隠された神からのメッセージそのものということになる。それは形()ではなく、形と形の間であり、そして私たちは今までの結果を消されて、内なる人に気づかされることが、イースター(復活祭)の目的ということになる。

 

さて、安息日が終わって、週の初めの明け方に、マグラダのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると、大きな地震が起こり、主の天使が天から降りて近寄り、石をわきに転がし、その上に座っていたのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった…マタイ28:1~3

 

句読点(文章と文章の間、稲妻のように輝き、その姿は雪のように白かった)というタテ糸の世界であり、天と地を結び合わせる新しいメッセージ(ホーリズム)ということになる。そこには生きている人(二人のマリア)と番兵という死んだ人とを分離させていく。

 

番兵は恐ろしさのあまり、振る上がり、死人にようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのたろうが、あの方はここにはおられない。かねてから言われていたとおりあの方は復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活され、そしてあなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」確かにあなたがたに伝えました…マタイ28:4~7

 

復活によって、生きている者と死んだ者とを見分けることができるということであり、私たちは信仰によって〝句読点(存在そのもの)〟という場を与えられていることになる。それはヨコ糸だけの人生から、タテ糸の人生への転換を意味する。タテ糸とはロゴス(恩寵)であり、自らの内なる思考空間(世に隠されている心象風景)ということになる。

 

  • 今では恩寵(聖霊)の状態から遠ざかって久しいとはいえ、人間はまだ完全にだめになってしまっても、変わっておりません。品位は落としたかも知れませんが、たからといって王座から追われてしまったわけてはないのです。そしてたとえボロボロになったとしてもいまだかってまとっていた王者の衣をまとっております。人間は準創造者であり、屈折した光線でありまして、ただの白色も、その人を通せば、多くの色となって分かれ出るかと思えは、それらはさまざまな生きたものの形のなかで、たえることなく混ぜ合わされ、心から心へと移っていくのです。私たちは、世界のあらゆる裂け目を、妖精やゴブリン(小鬼)でむこうみずにも、闇と光のなかから、神々や、その家々をつくり出しました…JRRトールキン
  • 言葉は他ならぬ秩序でるところのロゴスに由来していることによって、人間的な秩序の外にある多くの人間の世界へ侵入せしめない特性を有している。言葉は人間にとって一つの土塁なのである。多くの魔的なものが、人間の内部に侵入し、破壊しようと待ち構えている。しかし、人間はこの魔的なものによって侵害されることから護られているのである。いや、この魔的なものは言葉になかに入り込むことができないから、言葉(ロゴス)によってすでに、魔的なものから遠ざけられているのである…ピカート

24/3/24ブログ参照