24/3/30 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

外(我が身)と内(聖霊)

信仰とは互いの間(世の現象)に消されているという自覚が必要であり、自らの内に神と悪魔が同居している状態としての認識を通して、真の自分とは何かを問い続ける生涯ということになる。外は神と悪魔の混在の場であり、明快な言語というものは通用しない場を意識する。イエスの十字架の後、そして復活の前という中間領域である、金曜日(十字架)と日曜日(イースター)の間、という日に、公な弟子(アリマタヤのヨセフ、ニコデモ)でない二人の男がイエスの埋葬することになる。

 

その後、イエスの弟子であり、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた、アリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろしたそこへかってある夜。イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬、沈香を混ぜた物を百リトラばかりを持って来た。彼らは、イエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従がい、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、誰もまだ葬られたことのない新して墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた…ヨハネ19:38~42

 

私にとって、宗教と信仰とは異なるという感覚を持って、現象のなかに信仰を見い出すことはできないということを告げ知らされている。外は儀式(ユダヤの埋葬)であり、イエスの言葉は儀式を介さない沈黙のまま、心ある人々によってイエスは制度に則り埋葬されることになる。そこには十二弟子は世から隠されている。それはイエスと共に死んでいる状態(沈黙、レクリエム)であり、世になされるがままに儀式(宗教)は進行していくことになる。私の肉体は焼却処理され世の制度に焼かれて骨壺に入ってしまうだけ。その間、死体の私は何も語らない。だが、内なる魂というものが生前に語られ、それが聖霊となって肉化されるとき、イエスが語られた言葉(ロゴス)の一つ一つが蘇ってくる。私のブログの読者は私の肉体(世の既成事実に参加していない)を知らない。日々のブログもそのような感覚によって綴られていく。

 

  • ホーリズム(Holism)とは、あるシステム)全体は、それの部分の算術的総和以上のものである、とする考えのことである。あるいは、全体を部分や要素に還元することはできない、とする立場である。すなわち、部分部分をバラバラに理解していても系全体の振る舞いを理解できるものではない、という事実(正確には、ホーリズム主張者が考える「事実」)を指摘する考え方である。部分や要素の理解だけでシステム全体が理解できたと信じてしまう還元主義(無機質な整合性)と対立(信じるという表現は、誤りである)するという前提であり、ホーリズム主張者がその前提から始まる、全体論(個々の部分を結び合わせるパターン)と訳すこともある…ウィキペディア
  • 直接の先駆者であるキルケゴールは人間の自由選択の意義を強調し,未来の一部分はこの選択にかかっており,閉鎖的な合理的体系によって予知しうるものではないとし,このような人間存在を実存と呼んだ。他のものと代置しえないこの個別的実存のもつ哲学的重要性を強調する立場が広く実存主義と称される…コトバンク

24/3/28ブログ参照