24/2/28 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

世間と人間

人は社会性という世間の一員(科学的合理性、コピー)であり、また、人間としての主観を通した意見(哲学、オリジナル)というものを内なる心に秘めている。社会性によって客観という仮設の枠組を通して、経済活動が行なわれ、その全体を制御する法と秩序というものを法律(三権分立)が制定し、私たちの神と社会と人間という複雑な混沌の日々を過ごしている。そして、新約聖書では、イエスと律法学者との対立構造によって、世間と人間の関係性が語られていくことになる。社会のなかのキリスト教会という集団(聖書を中心にした専門知識)も、制度という組織化を通した社会言語(ヒエラルキー)と、個人の信仰の問題を抱えているということになる。

 

それで、兄弟たち、私たちは一つの義務がありますが、それは肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます…ロマ8:12~13

 

ここで肉と表現される言葉は社会性によって語られる聖書であり、内なる心という個々の心象を無視して、制度的な教会運営の前提を用いた集団化を語るとき、人間性を消した世間(律法主義者)による宗教(マインドコントロール)ということになる。イエスは人間性を通した内なる霊によって信仰の道を説いているということであり、聖書を通して対立構造が引き起こされることになる。

 

被造物だけでなく、霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われていること、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちはこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなにを望むのでしょうか。私たちは、目に見えないものを望むなら、忍耐して待ち望むのです…ロマ8:23~25

 

私はキリスト教会に通っている教会員に出会うと心を傷付けられる。彼らは個人ではなく、教会(共通のマニュアル)の教義によって、個人の信仰に立っている私を仲間ではないと私の個人的な見解をすべて排除する。

 

だれがキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか、迫害が、飢えか、裸か、危険か、剣か「私たちは、あなたがたのために一日中死にさらされています。屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです…ロマ8:35~36

 

キリストとは世に属しているのではなく、神からの分身であり、私たちはキリストを信じることで、自分が世に属していないと、疎外された精神作用(内なる霊の働き)を通して語っていくことになる。それゆえ、制度を支配する聖職者(律法主義、ファリサイ派)に迫害されることは当然の結果(安部公房流に語ればキリスト教会の壁)になる。

 

  • 「疎外」というのはすぐれて哲学的な概念であるが、この概念は、現代社会において人間の状況をあらわすシンボルとして広範な人々の間で取り上げられている。一つの哲学的概念が広く社会的なシンボルとして機能することはめったにないが、その概念が哲学的な問題を表現しているばかりではなく、重要な社会的な問題を表現しているからであるに違いない。現代社会のなかで生活するすべての人間が感じている切実な問題として我が国においてばかりではなく、資本主義や社会主義においてさえも、社会的な声として機能している…竹内良知

24/2/26ブログ参照