24/2/27 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

現実を消してイメージに生きる

獄中の犯罪者は、神に逆らったのではなく、社会の制度に逆らったゆえに、当局に拘束され投獄されるというイメージであり、その意味で社会から罰を受けているが、罰を受けずに罪を知らない一般の人々(娑婆の戯れ)よりも、神を自らの内に実感できる環境に置かれていることになる。罪を意識化させる場面は、イエスの十字架の両側に十字架に吊るされているイメージであり、私たちの信仰の歩みの始まりとなっている。

 

十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった「お前はメシアではないのか。自分自身と我々を救って見ろ」するともう一人の方がたしなめた「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに、我々は自分のやったことに報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と言った。するいイエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われた…ルカ23:39~43

 

私たちの信仰は現実(既成事実の言語の海)を消した、聖霊を通した「受肉」という表現をしていく。それはイエスを中心にした両側の十字架にかけられている人の心をイメージして、苛酷な現実(罪に覆い尽くされた人々の群れ)を生きていくことになる。

 

私の兄弟たち、いろいろな試練に出会うとき、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何ひとつ欠けたところのない人になります…ヤコブ1:2~4

 

現実を白紙の紙の上に置くと、砂漠の砂嵐のようなメディアメッセージによって真っ黒に他者の心に覆い尽くされる。私たちはその真っ黒になった場に、釘(神の言葉というロゴス)によってひっかくように生きていく。それによってひっかいた線によってこちら側の向う側の通路が与えられる。私たちの日々は「アート感覚」を通して自らのイメージ世界を描き続けている。まるで、安部公房の「砂の女」ということになる。私たちは精神作用という運動によって、今日から明日に向かって歩いていく。

 

  • 生活の作品化を作家活動と信じ込んでいる人がいる。なにも、同人雑誌などのこもっている文学老青年だけとはかぎらない。いわゆる私小説作家と呼ばれる傾向の人たちはおおむねこの信念を自己の支えにしている。またその逆の立場である社会派の連中にしても、その点において大同小異である。彼らはその主義主張から、作家もまた、現実社会に参加していなければならないという信念を持っている。ところで、この生活主義に対置すべきものを一般に芸術至上主義と呼ぶらしい…安部公房
  • 今では恩寵(聖霊)の状態から遠ざかって久しいとはいえ、人間はまだ完全にだめになってしまっても、変わっておりません。品位は落としたかも知れませんが、たからといって王座から追われてしまったわけてはないのです。そしてたとえボロボロになったとしてもいまだかってまとっていた王者の衣をまとっております。人間は準創造者であり、屈折した光線でありまして、ただの白色も、その人を通せば、多くの色となって分かれ出るかと思えは、それらはさまざまな生きたものの形のなかで、たえることなく混ぜ合わされ、心から心へと移っていくのです。私たちは、世界のあらゆる裂け目を、妖精やゴブリン(小鬼)でむこうみずにも、闇と光のなかから、神々や、その家々をつくり出しました…JRRトールキン

24/2/22ブログ参照