24/2/16 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

方便でなく方向性

世の知識は複雑怪奇な他者によって建設された百々迷路であり、就職試験によって組織に組み込まれ、組織が要求する多くのキャリアを取得しながら、それなりの生活が与えられていた。今の私は年を取り、そのキャリアを使えなくなり、社会的に無効とされたまま、肉体労働を通して、組織のコピー(時間操作)の作業(派遣)に従事し、日々の生活をかろうじて維持している。私にとって方便は家畜化(放蕩息子)のシステムに過ぎない。神はそのような私に方向性という自己の感性を通した生き方を与えてくれる。それは中心と周辺を有した一つの〝独楽(球体、宇宙船地球号)〟であり、その人格形成によって社会とは別の私が存在することができる。

 

「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」そして、祝福を始めた…ルカ15:24

 

方便(今いる場の直視という論理的な解釈)が客観性を前提にした昼の言葉である操作言語(個性はだれにも相手にされない)だとしたら、方向性(東西南北の指針)は夜の言葉のように、漆黒の宇宙に浮かんだ一つ一つの星の輝きであり、神の御心を通した我が内なる世界観ということになる。一人孤独な世界観を通して、世(不特定多数な匿名性の世界、そこでは自己主張の野心まるだしの数がものいうイイネの世界)とは別のイメージによって生きていくことを決断した生き方をしている。

 

それで、私たちは、今後だれも(野心まるだし族)に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今ではもうそのように知ろうとはしません。だからキリストに結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神はキリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のための奉仕する任務を私たちにお授けになりました…第二コリント5:16~18

 

言語環境に、方便を用いる有識者たちの言動に対して、私たちはただ沈黙し耐えていく人生であり、星の王子さまに対して作家(テグジュペリ)が二つの絵を示して、相手の真意を知ろうとするメッセージということになる。星の王子さまは即座に「剣呑な問いは後にして」と、絶望のふちにいる作家に対して羊の絵を要求する。聖俗の間(境界)という場は、ファンタジーであり、固定の事実(内側のない卵のハンプティダンプティ的な理論武装を押し付ける有識者の思考)の追求からは何も始まらない。

 

  • 生活の作品化を作家活動と信じ込んでいる人がいる。なにも、同人雑誌などのこもっている文学老青年だけとはかぎらない。いわゆる私小説作家と呼ばれる傾向の人たちはおおむねこの信念を自己の支えにしている。またその逆の立場である社会派の連中にしても、その点において大同小異である。彼らはその主義主張から、作家もまた、現実社会に参加していなければならないという信念を持っている。ところで、この生活主義に対置すべきものを一般に芸術至上主義と呼ぶらしい…安部公房
  • 想像力(ファンタジー)について書いたり話したりした僕が、僕の考え方がほとんどの人々に誤解されて伝わっている。ある評論家は僕について「彼はものを直視していない」と批判しました。また若い評論家が僕に対して援護射撃をしてくれるような論文を書きましたが、その論文でもやはり僕はものを直視していないことになっています…大江健三郎

24/2/5ブログ参照