24/1/25 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

作ると育てるとの違い

文明は人類によって発展している人の知識の集積物(既成事実)であり、時代の象徴であるコンピュータ世界ということになる。互いの間にコンピュータ(頭の機能)を置き、その操作(生産と消費のサイクル)を通した流通という時間(クロノス)を貨幣に変換(支配と労働)した間(権利の獲得競争)というキャリアを語っている。肩書(支配)と肩書なし(服従)の関係であり、政治経済の言語の海(マスメディアの肩書とSNSメディアの肩書なし)ということになる。個性なき騒音が特徴の言語の海ということになる。そのような状況のなかでマスコミのスターをSNSによって破壊するスキャンダルが横行(マスコミスターのダウンタウンのマッちゃんをSNSスターがこき下ろしてイイネを獲得、一般大衆はイイネを推して炎上ぶりを楽しむ)し、間を騒ぎ立てて貨幣(仮想通貨)が飛び交う。それに対して文化とは個と個の間(互いに触れ合う愛の論理)という造形(育てる、育てられる)であり形(見えるもの)ではなく、時(カイロス)の刻(痛み)という瞬間(アート作品)を示していく。それゆえ、聖書(見える文字)は操作(先生と生徒というクロノス)という知識(先生の授業料)を互いの間が貨幣(支払う)の関係(献金によって地図上にキリスト教会が建っている。表紙、ヒエラルキーの階段)、愛(カイロス)の関係(世の聖職者を消した個と個の関係)に分離している。そして私の文章は、貨幣(世の権威)を消した文言となっている。

 

深い地の底も御子の内にあり、山々の頂きも主のもの。海も主のもの。それを造られたのは主、陸もまた、御子によって形づくられた…詩編95:4~5

 

カイロス(タテ糸)という天と地の間(地表を突き抜けるパワー)に、私たちは育てられている作物(生命体)であり、商品(人類の言語の海)というクロノス(ヨコ糸)と区別される。そして聖書による文明(聖職者、マスコミとSNSコミのイイネ献金で潤う人々)によって傷付けられた心の世界が癒される。

 

卑しいことを目の前(メディアメッセージ)に置かず、背く者の行ないを憎み、まつわりつくことを許さず、曲がった心を退け、悪を知ることはありません。隠れて友(マッちゃん)をそしる者(SNSスターの言動)をほろぼし、傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません…詩編101:3~5

 

私たちはヨコ糸と関わっていない心によってメッセージしている。隠れて友をそしる者が時代の表(マスコミ)(SNS)のハイウェイスター(炎上という仮想通貨)として高速道路をまっしぐら、私は貨幣(あなたがたは勝手にジャラジャラ言ってな)を消した言葉(アート感覚)によってブログをつくっている。

 

主は私たちの神、私たちは主の民、主に養われる群れ、御子の内にある羊、今日こそ、主の声を聞き従わねばならない。「ある日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの祖先は私を試みた。私の業を見ながら、なお私を試みた。四十年の間、私の世代をいとい、心を迷う民と呼んだ。彼らは私の道を知ろうとしなかった。私(稲妻)は怒り、彼らを私の憩いの地に入れないと誓った

 

養われるという言葉(自然に生じてくる)によって育てられ私たちであり、主の心と触れ合いによって今日を生きている。それは聖俗の分離(中間領域というタテ糸)によって語っている。それは空気感の造形(ディスンス)であり、触れる心(個性の心象世界)がなかったら無効(人工の出来事と物事に操作される日々)のメッセージということになる。私たちは〝単語(土壌から芽を出した名もない雑草)〟であり、彼らは私たちを時代の言葉(有名という名の権利)で道路工事(高速で走れる流通言語)を建設する。まったく異なる世界観(アスファルトの下の雑草の種)であり、決して接点(聖俗の分裂)のない彼らと私たちということになる。

 

  • 言語は自然に生じてくる。我々は文法のためのDNAを持ち、文章構成法のためのノイロンを持っている。言語をなくすことなどできない。人間は変化しながら、新しい道具や都市をいたるところにつくりだして、一つの文明から次の文明へと、這うようにして進んで行く。単語(人間)はそれ自体驚異である。どの単語も、その用途に合うように完全な工夫がこらされている。古くて力強い単語ほど膜(周辺)に包まれている。一語からなる詩のように、何層もの違った意味で包まれているのである…ルイストマス

パラドックス

我々の知覚過程が無意識的なものであるということは、いくつかの興味深い副作用がある。たとえば夢、幻覚、直観像など、イメージ形成が感覚器官からのインプットという規制なしに進行していく場合、そのイメージが表象しているものの外的実在性を疑うことが困難な場合(復活イエスと世の知識人トマス)が生じる。その場合、逆にイメージ形成の過程などあまり知らぬ方が幸いだということもある。無知であるがゆえに、五感の言うままを自由に信じることができるわけだ。感覚器の報告にいつも疑いを抱いていなければならないとしたら、これは悲劇に違いない…ベイトソン

24/1/16ブログ参照