24/1/24 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

受け取る感謝

依存の愛は受けることへの恐怖であり、情報過多の中の混沌への選択(気分)という日々(イイネ)を意味する。それは同情(同じ思い)であり、外に感情が出ている文章(誘惑)の意味となる。彼らは数を競う市場原理(仮想通貨の心)であり、相手が自分との差異(思考空間)というものを表現されたら通過していく。差異(心の刺激)というメッセージは、真の自分(孤立)への問いであり、選択(市場)という言語の海に同化(迷宮、イイネに依存)された選択権(買物、無機質への所有権)ではなく、生き物(それぞれの感覚器官の交換)を求め合う愛(必要と不要)ということになる。要という文字はカナメの意味であり、二つのものを結び合わせる絆(絵、隠喩の動機)を意味する。私の文章は生き物(私の心)であり、互いの間の仮想通貨(イイネ)による商品の選択ではない。貨幣では買えない無償の価値(ただの自然の出来事と物事という空気感)ということになる。

 

求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる…マタイ7:7

 

有り余った貨幣を持ってデパートの商品ケースから好みを選ぶという日常の生き方(イイネ、長い坂のフレーム)から、そのための労働(貨幣を得る)を強いられることからの解放(生産と消費のサイクル)であり、私たちは仕事の意味(アート感覚)を実行している。労働と仕事の違いというものは、無償でも、相手に必要な状況なら、相手の求めに対して仕事(命を賭ける)をすることができる。それは商品のための労働ではなく、相手(命の共感)のための仕事(アート感覚)という互いの間の造形を意味する。ファッションモデルが世との鏡合わせの衣服(流通言語)だとしたら、俳優の仕事は内面の演技というパフォーマンス(互いの間の空気感)を意味する。その場の空気(ディスタンス)を吸い込むのであり、生きている実感(心象)を共有する〝愛〟を得ることができる。

 

だれでも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたくものは開かれる。あなたがたのだれかが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか…マタイ7:8~10

 

聖書は譬喩(metaphor)であり、聖書の文言「パン」と「石」の違い、「魚」と「蛇」の違いというものを読み取ることが大切であり、蛇(情報過多の言語の海、誘惑)と魚(イエスキリストを伝える使徒)との違いとは何かを、聖書の文言から感じ取ることが聖書を読む意味ということになる。そうすれば、石とパンの言葉の違いが理解できるようになるだろう。使徒たちの行為は、無償の行為であり、使徒言行録で活躍している一人一人の使徒たちは昼には苛酷な労働(食べて生きていくための肉体)を強いられ、夜に伝道の仕事(精神作用)をして、今のキリスト教の礎となっている。そして多くの使徒たちの運命はイエスと同じに〝殉教〟という殺され方をすることになる。ミケランジェロという画家は、自画像を殉教したバルティマイの姿としてを描いている。彼は私たちにアートとは自らの皮膚感覚の造形(隠喩の動機、存在のイロハ)であり、物(見える肉体)としての価値はゴミ(皮膚の抜け殻)であると、私たちにメッセージしている。社会(貨幣)に通用するデザインは商品であり、心を造形しているアートは作品(命の共有)かゴミ(貨幣価値のないガラクタの集積物)である。

 

隠喩への動機

君は秋の木陰が好き、なぜってすべてがなかば死んでいる。風はまるで足をひきずるように葉陰を抜け、そして言葉が意味もなく繰り返される。同じように、君は春にしあわせだった。四半分の物の半分の色で、ちょっぴり明るくなった空、消えてゆく雲、たった一羽の鳥、ぼんやりした月、ぼんやりした月が照らすぼんやりした世界。表現し尽くすことなどあり得ない物の世界。そこで君自身は全き君自身であったことなどない。そうなれたくもないし、そうあるべきではない。

変化に浮き立つ気分がほしい。隠喩への動機が

真昼の重みにたじろぐから、存在のイロハに、はつらつとした健康な気性、赤と青のハンマー、強烈な音、暗示に逆らう鋼鉄、鋭い閃光、生命の、傲慢な、破壊的で、支配的な何か

…ウォーレス・スティブンス

24/1/22ブログ参照