24/1/11 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

親切にはお金がかからない

口先で人に命令するためには、貨幣(共通言語)によって相手への操作権(肩書)を組織から与えられる権利が必要であり、相手は貨幣の負い目によって操作言葉(組織維持の法則)に従う。組織(共同幻想)では肩書(格差)が貨幣の代理となり、肩書のトップは組織全体(構造というシステム)を口先で操ることができる。組織(味方)と組織()の間(言語の海)の世間とは無秩序の場(戦場)であり、組織(キリスト教会)の肩書(クリスチャン)を取った一人の男(今の私)が、世間に出て、人に示す自分の立場とは何かを知らなければならない。私は組織を消した一人の男としてこのブログ(事件簿)を書いている。それは十字架によって肩書が消された使徒(忍者)たちの生き方ということになる。自らの身分を隠すということによって、世(十字架)に消されたキリストを伝えるという使命を生き抜き、私にとって今も、聖書は生きていくための指針(guidance)を示す一冊の本(神話を継承)であることになる。

 

無慈悲、憤り、怒り、そしりなどずてを、一切の悪意を一緒に捨てなさい。互いに親切にして、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい…エフェソ4:31~32

 

世から見える支えを失ったクリスチャンは、自らの内にキリストを住まわせなければならず、相手が私に対して思い描く組織の枠組(タテマエ)を消したあらゆる悪口を、自らの内(心象)から消さなければならない。人(アダム)とは、心の内にカイン(見えるクリスチャン)とアベル(見えないクリスチャン)を持っている。見えるクリスチャンはイスラエル(組織)という国でパレスチナ(組織)の殲滅戦争(無秩序)をしている。私たちは口を閉じて、沈黙の日々を自らの心象(見えないクリスチャン)として生きている。口先で聖書を語り、態度(忖度)で敵に対して殲滅を宣言しているイスラエルの首領(トップは組織維持のための方便)ということになる。それに対して、外に単なる男としての私は、相手に外(組織)を消してもらい、真のキリストを伝えようと、聖句を態度(ブログの文章)として示していく。

 

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐みの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがっても、赦し合いなさい。主があなたがたを愛してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい…コロサイ3:12~13

 

私にとって大切なのは、忍び合いという現象(戦場のような野心が丸出しの殺伐とした人間関係)を消した生き方であり、貨幣(世の価値)を消した親切(真の人格、ターニングアウエイ)ということになる。なにしろ、現象(見えるキリスト教会は単なる偶像)にはキリストが不在(疎外されている人が見えない)ということを知らなければならない。

 

これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずかるために、あなたがたは招かれて一つの体(世の現象を消した心象)とされたのです…コロサイ3:14~15

 

キリストが心を支配するのであり、外の現象(言語の海からの専門知識としての切り取り)によってキリストを語ることではない。内村鑑三が無教会で私たちに示したように、マザーテレサが既存の教会から去り、インドに「死を待つ人の家」を世に置かれたように、貨幣を消した親切が自らを世(ヨコ糸)から救ってもらえる。天から見ている神(芥川龍之介の蜘蛛の糸)によって一本のタテ糸が与えられるように、天空から親切の糸(救い)が与えられる。

 

  • 二つの時間、たとえば地震の地に住んでいる私たちはプレートの圧力の限界まで蓄積されたエネルギーの解放を待つ物理的(一寸先は闇)な時間(瞬間は永遠、境界上の生死は同じ、この文章をつくっているとき、能登半島地震が起こり一瞬に命を落とす)と、今一つは昨日のように今日があるのだから、今日のような明日があるはずだという思い込みの、日常の経験則の時間だ。物理的な時間は避けがたいことを知りながら、なぜか、経験値(コンピュータによる経験値からの因果の数値化)を優先させてしまっている。想像力の不足からくる楽観主義(組織の肩書族)が、盲人(聖職者という社会的な肩書)が盲人(信者)に連れられていく群れを描いだブリューゲルの絵を思い出す…安部公房
  • 社会的に疎外され、感情的にも人々から疎んぜられる人々を周囲に見い出す時、私はキリストが、御自分が疎外されて悲しんでいらっしゃるように思えて仕方ありません。貧しい人々が疎外されて淋しい思いをしているとき、キリストも同じ淋しさを味わっておられるのです…マザーテレサ

23/12/30ブログ参照