24/1/5 | クリスチャンリンゴ事件簿、アッパールーム編のブログ

与え合う

私たちの間である心には社会の領域と神の領域が一つに混在している。混濁したまま、聖書を読んても何の意味も発生しない。社会(言語の海)と神(空白)という二つの間に立たされているとの自覚が必要であり、黒(覆い尽くされている)と白(ディスタンス)という二つの空間を識別する心が必要ということになる。外と同化された地下世界である心(忖度)は、外の奪い合いという表の欲望(自分の都合で聖書を解釈、その結果、自己正義の戦争が絶えない)によって自分が動かされていく。内なる世界に神の支えによって生きていく人には、互いの間(ディスタンス)を求め、外(自己都合の解釈)を消した相手の内(地下世界)へと問う言葉によって、個と個へのコミュニケーションを求めていくことになる。それは世の文章に組み込まれた価値(常識世界、奪い合った社会的な身分)からの逸脱(差異というホームレス)をとおして互いの間に問いかけていく。それゆえ、私の文章は、点と点の間(ホームレスという空白)を通して、この文章を読む相手(相手の心象世界)に問いかけていく。

 

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリスト(互いの間)による励まし、愛の慰め〝霊〟による交わり、それは慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いになり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください…フィリピ2:1~2

 

心の内に言葉(キリスト)を持たなければ、外なる現象に心(損か得かという計算)を奪われ、相手の必要を自分が与えることができない。奪い合う生き方が身についてしまい自らの心(利己心、虚栄心)による疑心暗鬼(攻撃してくるゾンビ)によってしか相手(ゾンビの仲間になれば何も怖くない)を見ることができなくされていく

 

何事にも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめいが自分のことだけではなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにことことを心がけなさい。それはキリストイエスにも見られるものです…フィリピ2:3~5

 

真のクリスチャンとは内()にキリストが住まわれている意味であり、聖書の言葉を丸暗記(律法学者、ファリサイ派)という外の言語の切り取り(専門知識)ではない。彼らは社会で言語の奪い合いの先頭(世界の指導者たちの宗教、世のエルサレレムは三つ巴の覇権の奪い合い)に立っている。それゆえ、キリストは面の聖書の逆の心(十字架の受難、ダリの十字架は中心に与えるパンが描かれている)によって語っている。

 

キリストは神の身分でありながら、神(偶像礼拝)と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして。僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順てした…フィリピ2:6~8

 

自分を無にしての反対が、自分が教祖(偶像、既存の宗教)になることであり、トム(世の特権を利用する飼い猫というインテリ)ジェリー(世の特権なき泥棒の知恵)との争いが社会(既存の家の概念である宗教の前提がトム、そしてジュリーへの裁きが永久に続く)であり、最近のヒット映画のミニオンでは泥棒(主人)を求めて(地下世界、あるいは水中のイメージがゴーグルであり、イエローサブマリンのイメージ)が活躍する。それはユニオン(労働者階級)の隠された心(ミニオン)であり、その現象からの無(架空の物語、時の流れ)という立場が信仰(第三の範疇)となる。第三の範疇という物語のメタファーは「天空の城ラピタ」の体制(言葉を消された身分)と泥棒の間に少年と少女というミニオン(物語の主役、知恵の冒険)が置かれ、泥棒(社会からの疎外者)たちに救われる映画となっている。

 

  • トムとジェリーは会話をすることがほとんどなく、笑いや叫びなど言葉にならない声やジェスチャー、他の登場キャラクターの会話などで物語は進行する(一部の例外作を除く)。トムとジェリーをはじめとした人間以外のキャラクターによる、現実では大怪我や死に値する過度な暴力(殴打爆発物の使用、斬首指詰め感電転落火傷凍傷、他多数)をコメディに変えるという作風であるが、流血描写は描かれていない…ウィキペディア
  • ゴーグル(goggle)は英語の単語で、主に二つの意味を持つ。一つ目は、目を大きく見開く、見つめるという動詞の意味である。例えば、「彼は驚きのあまり目を大きく見開いた」は英語で「He goggled in surprise」と表現される二つ目は、ゴーグルという名詞の意味である。これは目を保護するための装具で、スキー水泳実験など様々な場面で使用される…コトバンク
  • 我々の思考の論理が「同族」と「異属」とを区別する性質のものだとすれば、我々の範疇を混乱に陥らせることなく「異属」とのギャップを埋め、社会的、性的関係を確立するためにはどうすれば可能てあろうか。こうゆうわけで、神学は多種多様であるにはかかわらず、神話のこの局面は不変である。あらゆる神話体系のなかに、我々は二項区分の果てしない連鎖を発見する。たとえば、人/超人、死/不死、合法/非合法、雄/雌、善悪など。そしてこのように区分された一対の範疇の「調停役」がその後にあらわれるのである。「調停役」は第三の範疇(中間領域)を導入することによって実現され、それは通常の合理的範疇(トムとジェリー)から見て「異常な」、あるいは「変則的」なものである。その結果、神話にはとてつもない怪物(怪盗クルー)や神々の化身、処女なる母がたくさん登場するのである。この中間領域な異常であり、非、自然であり、神聖(アート感覚)である…エドマンドリーチ

23/12/9ブログ参照