1ヶ月ぶりの投稿です。年度替りは忙しくて、なかなかブログが書けなかった。

何を書こうか考えていたら、ある方面から「最近の若い人はろくなあいさつができない」なんて言う愚痴が聞こえてきた…と思ったら、別の日には「あいさつあいさつって、うざ~い。強要するもんじゃないだろう」なんて言う声も聞こえて来たんだな。

 

なので、今回は「あいさつ」についてのお話しをしたいと思いまーす。

10数年前、私が地方紙に書いたコラムの内容が正にそれだったんで、それを本にしてお話します。

 

 出会いのシーンで欠かせない挨拶(あいさつ)は、コミュニケーションの入り口だということ。その表現は意思を伝達する重要な手段なわけ。この「挨拶」の本質を理解していない方々(推奨派も否定派も)が、いくら云々しても、なんだかなぁって感じです。そこで挨拶の本質についての考察でーす。

 

普段何気なく交わす「こんにちは」という言葉。これには農耕民の文化が潜在しているんです。「今日は、・・・・・。」と、その言葉の後に会話が続くわけね。大抵の場合、農耕に結び付く天候や季節の変化についての話題が繋がってくるんだな。

冬は寒く、山間部には雪が降らなきゃぁ困るわけ…(夏、水不足になるからね)、夏には気温が上がり、日照がなければいけない…(稲の花が咲かなくなったら困るでしょ)、雨も風も四季を通じて程良くなければいけないわけだ。これって、とても繊細なバランスなんだな。このバランスが崩れた時、収穫は目減りするんだよ。そんなリスクの中、その日の天気を心配したり、喜び合ったりする。これが「こんにちは」の原点なんです。

私が子供の頃、近所のじいさん、ばあさん達(あっ、失礼…お年寄りの方々)が、逢う度に「いいあんばいですね」「あぁ、いいあんばいだね」なんて言葉を、晴れでも雨でも交わしていたのを覚えています。これこそ「今日は、」の後に続く言葉なんだと、○○研究を始めて、はたと気付いたのでした。 

繊細なバランスが保たれていること=正に良い塩梅なわけですね。

 

「挨拶」とは、そもそも仏教用語だってことご存知でしたか?

どんな意味を持つ言葉かっていうと、雲水(禅家の修行僧のこと)が寺を訪れた際に、玄関先で知見の深浅を問答で試されるわけね(面接試験みたいなもんだな)、これを禅問答と言います。で、実力が認められたら、やっと中に入ることを許されるという、この一連の行為のことを「挨拶」というわけです。

『挨』の字には、「近づく」とか「開く」なんていう意味があります。『拶』には「迫る」なんていう意味があるわけ。

『挨拶』とは、「自ら近づき、相手の心をこじ開ける」という、とてもパワフルな意味を持つ言葉なのでーす。

で、私たちは、生活の中にこの言葉を借りて暮らしているわけね。そこには「心を開いてお互いに理解し合いましょうね」という約束事があることを忘れちゃいけないのです。

 

日本には、挨拶として交わす言葉がたくさんあるわけさ。TPO(時、場所、場面)で使い分けるんだけれども、その言葉を単なる音のやり取りで済ませてしまってる人が多いんだな。

企業マニュアルで決まってるから、ただ決まり文句の様に言っている場合が多いように見えるのは私だけかな。

例えば、コンビニで「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」を、作業をしながら客にお尻を向けたままで言っていたり、社内で朝から「お疲れ様」と声をかけられたりね。だいたい朝から疲れてないし、単なる合言葉かって思うわけ。

自動ドアが機械的に「いらっしゃいませ」って言っているのと大差ないですよね…、そう云えば、我が家の風呂もスイッチを入れれば「お湯張りをします」「お風呂が沸きました」って、勝手に言ってます。それと同じだな。

 

挨拶ができないと嘆く人も、挨拶なんて嫌いだという人も、この上辺だけの音のやり取りの次元でものを言ってるに過ぎないように思えてならないのです。

みんな、挨拶の交わす言葉に、意思を乗せる大事な作業を忘れているんだね。意味を持たない音のやり取りだけなら、無くてもいいのさ。いつしか生活の中から消えてしまうかも知れないね。

 

挨拶の交わす言葉に、意思を載せるという大事な作業ができたなら…、

 

朝、「おはよう」の言葉に「今日も一日がんばろう」なんて言う意思を載せて発すれば、声の張りや表情も変わり、その場の空気だってピンとして、エネルギーが湧き出るような気がするんだな。挨拶にはそういう力があるのさ。 正に言霊なのだ。

 だから大事なの…。