レアな京都を求めて④ | ニュアンスで生きてます

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y-style 浅森 夕紀子

レア京 第④弾は京田辺にある「一休寺」(酬恩庵、妙勝寺)アニメで有名な一休さんのお寺です。



始まりは鎌倉時代 禅道場。元弘の戦火で燃え復興されていなかったのを、一休さんが再興。師匠の遺風の恩に報いるという意味で「酬恩庵」(しゅうおんあん)と命名。88歳で亡くなるまでここで過ごし、現在もここに葬られています。そのため通称「一休寺」

(総門から本堂まで美しい石畳が続きます)



一休宗純(そうじゅん)…アニメで有名な一休さんは室町時代、後小松天皇・足利義満の血を引く者として、母 伊予局が京都 嵯峨の民家で、明徳5年(1394年)の元旦に出産。
伊予局は北朝最後の天皇 後小松天皇の寵愛を得ていたが、南朝に仕えた家柄出身。南北朝が合体してまだ2年。権力から離れるため、一休さんは6歳で四条大宮付近の安国寺に預けられました。
…6歳。小学校1年生だよなぁ~😢

大徳寺の高僧 華叟宗曇(かそうそうでん)より「一休」と名付けられる。
修行を重ね、禅の道を悟った一休さんは30代で師の元を離れ、小庵を転々としながら各地を訪ね歩きました。そして60歳過ぎに京田辺市の薪(たきぎ)村の妙勝寺にたどり着きます。焼け落ち荒れ果てたこの寺を再建し、60歳すぎから88歳で亡くなるまで、この地で過ごしました。

今も遺骨は寺内にあり、一休さんは皇室出身なのでお墓の門には菊花の紋があります。




とんちとユーモアに優れ、破天荒だった一休さんは、晩年もゆっくりしていませんでした。
応仁の乱(1467)が、一休さんが74歳の時に始まり。名を授けてくれた師匠のお寺「大徳寺」が炎上。7年後、再建のため(住持に!)と白羽の矢が立てられた時 一休さん 81歳。
は、は、は、81歳?!

88歳で亡くなるまで京田辺から大徳寺に通い住持のお仕事をされました。

一休寺内の「虎丘庵」で質素な生活をした一休さん。しかし村田珠光、金春禅竹、音阿弥らが一休さんを慕い、よく訪れた。





★村田珠光…一休さんから禅と茶のこころを伝えられ、それを武野紹鷗  千利休に伝えたので、ここが茶道のルーツと言える。

★金田禅竹…能の名人。
★音阿弥…能の第一人仁者。
★薪能…一休寺が「薪村」にあったことが由来。

★善哉(ぜんざい)の名付け親…初めて食べた時「善哉此汁」(よきかな このしる)と言った。
★一休納豆…ネバネバと糸をひく納豆と違い、味噌に似た風味。香ばしい。
当時、肉を食べない僧の貴重なタンパク源であった。応仁の乱で飢え苦しんだ人々のために一休さんが築法を伝授し、今や京土産に。仕込みから完成まで一年。

★一休寺名物の三本杉。(500年)
★「このはし渡るべからず」の橋。
★怪しい?石仏群の「二十世紀の森」など、見る所が沢山あります。





「宝仏殿」の中にはたくさんの貴重な資料が展示してあり、後小松天皇の直筆の和歌や、一休さん直筆の絵や書があります。

その中に一休さん直筆の絵と書「鐘楼画賛」の解説で、(長年の禅の修行を終え、悟りを得ることが出来ました。悟ってみても何も変わらず、夕方で日は斜いて、その静けさの中 山寺の鐘が響き渡ってる)と歌っています。

短くまとめようにも、一休さんの長く壮大な人生は短くすることは出来ませんでした(笑)

ここ一休寺は「かくれ紅葉スポット」。秋には寺内は真っ赤に染まり、それはそれは綺麗だそうです♪

駅からも近いし、静かでよい場所です。いつか訪れてみてください😊🌸