技術を考察・分析し哲学するということは、生き抜いていく上でも必要なことな気がしてならなくて。
そもそも、言語というのは『記憶技術』であって、「技術」の観点から新たに「言語」をとらえる必要があると思ってます。
ということは、技術は人間の成立条件をなしているので、技術を考察することなくして人間を理解できないということに繋がるのではないかな、と。
技術を考察・分析して哲学していくことは、私が今好きでやっていることの一つで、これに対して自分なりの価値を見出しているから、トレーニングでもそういった要素が導き出せそうなトレーニングを行っています。
もちろん、トレーニングだけではなく、サッカーを深く分析して哲学しようと思ったら、哲学という分野は脳科学や心理学といった分野と密接に関わっているので、そういった分野の知識が必要になってくるのは必然です。
そもそもにして、日本における哲学は歴史上の哲学者を勉強することや、人生論=哲学の道、という認識が広くあるように思います。
昔、そういう類のことをブログに書いていた時代哲学的すぎる、頭をもっと柔らかく、などと言われたものです。
ただ、それに関しては疑問に思っていました。
哲学ってそんなに敬遠される必要のある分野なのかな?
歴史的転換が引き起こされている時、哲学という分野はそれに密接に関わってきたという過去があります。
19世紀末から20世紀初めにかけて、「意識」を分析する認識論的転回から、「言語」を分析する言語論的転回が哲学の主要なテーマになりました。
極端に言えば、「言語によって世界が構築される」と見なされる転回です。
ですが、ポストモダン思想では「異なる言語ゲームは共約不可能である」と考えています。
言語によって現実が構築されるとすれば、言語が異なる時、現実も違ってくるのは当然。
日本語と英語、ドイツ語といっま言語を学び感じたのが、それぞれの言葉に訳すことのできない存在しない言語があったりしますし、解釈が異なる言葉も多々あります。
そんな転回を経て
現在は、言語の哲学から「心」の哲学へと転換していると言われています。
私も8年くらい前からは言語を分析することに興味をもって、それらを分析してブログで発信してきたのですが、ここ最近は人の心を中心とした分析をするようになってきました。
言い換えると、言葉や意味の本性、社会の本性、知識の本性はすべて、人間の心の性質というより一般的な問題の特殊例にすぎないということなのではないかと。
これらを、自然主義的転回と呼ぶこともあるそうです。
そしてもう一つ私が注目したいのは、メディア・技術論的転回。
メディオロジーとも言われ、コミュニケーションが行われるときの、物質的・技術的な媒体を問題にする学問のことをさします。
言語は、それを伝える物質的な媒体無くしては成立しません。
たとえば、音声言語の場合には、身体(喉や口)を使って音を出し、耳を通して聞かなくてはなりません。
さらに、音が伝達されるためには、媒体として空気(素粒子)が必要なります。
また、文字言語の場合には目や手の他に、紙とペン。
SNSというプラットホーム、携帯電話、パソコンなどの電子機器。
こうした物質的な媒体無くして「言語」によるコミュニケーションは成り立ちません。
ベルナール・スティグレールという人が、メディオロジーをも含む形で「技術の哲学」を構想しています。
「技術」は人間を人間たらしめる最も本質的なものだけど、哲学は今まで「技術」に目を向けることなく視野の外に置いてきたそうです。
『技術を哲学する』ということは、コミュニケーションを成立させる、人間を理解する上では欠かせないということが言えると思いますし、人間を理解しないことには見えてこないことってたくさんあると感じています。
目に見えないもの、形として存在しないものを考察し、分析する力がこれからは求められてくるのかな、とも。
サッカーを通じて、サッカーの技術を哲学し続けていくことに終わりはないと思ってます。
まだまだ不十分なことはたくさんあります。
着地点が見えない道は、歩きがいがある。
まだまだ失敗の数が足りないので、新たな失敗をどんどんしに出かけなくちゃなと思った次第です。
さ、セロトニン出しまくっていきましょ。