こんなテーマでちょっと考えてみようかと。
【どうしたら自分の「軸」となるものが形成されるのか?】
最初から自分の中にぶれない「軸」となるものがあったわけではないと思っています。
生まれながらに持っている運命的な本質や、性質っていうのはあるのかもしれないけど、そういったものを抜きにして考えると、人の人格というのは、関わる人であったり置かれている環境による影響によって、形成されていく。
そんな中、これまでの人生において
私のなかに「これだけはブレずに大切にしていること」があります。
というより、結果的に『大切にしてきていた』とも言い換えられるのかな。
●目標を掲げる
●挑戦する
●言語化
●習慣化
小学生時代はあまり覚えてないけど、、、
小6あたりからは夢を言葉にするようになってたと思います。
サッカーボールには『日本代表選手になる』って書いていた記憶があります。
まぁ、本当に人見知りで人前で話せない子どもだったけど・・・(当時はとてもコンプレックスでした)
私は基本的に勉強にしても何にしても、覚えるまで、やれるようになるまでは気が済まない完璧主義タイプの人間なので(苦笑)、その厄介とも思える性格が「習慣化」を生み出していたように思います。
言葉にするのはどちらかといえば苦手で、勘違いされることはよくありました(今でも沢山あるけど。。)。それは言葉にするよりも先に行動にしてしまうことの方が多かったことで、表現が上手く伝わらず、言葉足らずになってしまっていたのかなと。
まぁ、伝わるわけがないですよね(笑)
人前で話すなんてありえなかったし、自分の意見や考えを人前で言うなんて恐ろしくて出来ませんでした。親の前ですら本音や本心は語れないタイプ。
今でも「一言挨拶お願いします」って急に振られると、内心はかなりオドオドしてますが(笑)、話す相手の立場を踏まえての言葉を選ぶように心がけていますが、まだまだそういった場で話すのはとっても苦手です。(←これに関しては、克服するために夢があります)
わけもわからず16歳で代表デビューして、周りにガヤガヤ言われて、メディアにはチヤホヤされて突き落とされて、ピッチ内外で悔しさと恥ずかしさと情けなさと不甲斐なさと、そういった思いしか経験しなかったので、これが私の反骨心に火をつけました。
挫折と失敗は沢山あったし、まぁ周りからしてみたらそんなの挫折でもなんでもないよって思うことなのかもしれないけど、結構なくらい心が折れる経験はありまして。
でも、失敗したまま終わらせたくないっていう気持ちは人一倍強い人間のようにも思います。そう、完璧にはできないけど完璧主義だから・・・苦笑
ただ、その挫折と失敗を経験したからこそ、同時に、「できないことができるようになる喜び(成功体験)」が自信に繋がることに気付きました。
だから、そういった小さな成功体験をただひたすら積み重ねました。
もちろんその過程においては、なかなか出来るようにならないもどかしさや、何度も試しては失敗する経験があってのこと。
とっても小さくて地味なことを、丁寧に繰り返しやり続けて無意識化することが、自信になることを実感できました。
これは、挑戦するから得られる経験であり、失敗しないように生きている人生では、失敗も成功も経験することはできないので、何が失敗で成功かにも気付けません。
自分で決めた目標は実現するまではやり抜いてきたし、もちろんまだその道の途中の目標だってあります。
実現できていない目標だってあります。でも、どれもやっぱり諦めていません。
目標を言葉にし続けることで自覚と責任を植え付け、そこから逃げないように仕向けてきた部分は少なからずあって、そこから本当の意味で「戦う」とは何かということを学びました。
戦うということは、結局は「自分自身」と戦えるかどうかなんだなって。
自分と戦えないと、海外で生き抜いていくことってとても難しいです。
外国人選手としてチームに在籍しているということは、その国の人の仕事を一枠奪っているということでもあります。
だから、結果を残さないといけないし、チームの勝利に貢献しなければならないし、そこで自分という「価値」を提供できないといけません。
それには、それなりの「覚悟」と「責任」が必要で、「自分の価値」とは何か?を考えながらその価値を提供していかないと、必要とされる人材になることって難しい。
そういった結果(目標達成)を求めて「挑戦する」ことから得られる失敗、挫折、成功体験があり、そこから色んなことを考え、試行錯誤し、本質を見極めようとする作業をし続けていくことにより、自分の信じられる一つの「軸」というものが形成されていくのかなと私は思います。
とにかく大事なのは、自分の『内面』とコミュニケーションを取ることと、『外面(自分以外の人)』とコミュニケーションを取ること。
この2つを分けて考えてコミュニケーションをとることが必要なんだ、ということにも気付かされました。
10年前に描けなかった目標は、今は描けるようになっていて、この先の10年はどんな10年になっていくんだろうと思うと、イメージできる部分もあれば、そうでない部分も当然あったりします。
でも、やっぱり大切にしたいのは、一度覚悟をもって目標を設定したのなら、成し遂げるまで諦めないこと。
やっぱり、途中で諦めるのはクソかっこ悪いし、自分が一番後悔するだろうから。
失敗しても、生きている限りは何度でもやり直せるから。
たとえ、生きているうちに実現できそうにない目標だったとしても、自分が死んだ後に実現できるような努力をし続けていきたいと思う。
ここまでサッカーやってきて、途中投げ出したくなったり逃げ出したくなったりしても、ちょっと道にそれたとしても、失敗したのかなーなんて思ったとしても、最後はちゃんと『向き合う』ことが大切だっていうことにも気付くことができました。
向き合う勇気やきっかけをくれる人がいることは、恵まれている証拠。
だから、私もそんなことを与えられる人でありたいと思うのです。
もちろん、最終的に向き合うって決めるのは自分自身なんだけど、その過程にはやっぱり「人」の影響が大きいことを実感したから。
自分自身と向き合い続けることでしか、自分という人間を越えて成長していくことはできないから。
2006年くらいからひたすら言語化して書いてきたノートは、今は20冊以上になるけど、そこには葛藤や苦悩も沢山詰まってます。
そういった感情も全て書き残してきました。自分から逃げないために。と、後世に何かを残していけるように。
では、こうして得た経験をどうやって還元し、それに価値を生み出し、社会に貢献していくのか?
手段はいくらでもあると思うし、やり方は人それぞれだと思う。
もしかしたら、今でも十分社会に貢献できているのかもしれない。
サッカー選手としての役割を果たしているのかもしれない。
でも、これからはその形を変えながら、社会のニーズに合わせた形、人の心にしっかりと寄り添う形で、自分が心の底から好きだと思うこと、やりたいと思うことで、実行していきたい。
そして、その想いに同調してくれる、戦ってくれる「仲間」と共に、未来を創っていきたいと心から思う。
それを実行できなかったら、サッカー選手をやっている(やってきた)意味も価値も全くない。
ただ自分の好きなことやって、色んな経験してきたっていうだけの人生で終わってしまう。
そうはなりたくない。
正義を振りかざすつもりは全くないし、自分を正当化しようとも思っていません。
ただ、そのとき自分が確信に思っていることはっきりと言葉にして言い切るべきだし、そうじゃなかったら前には進めないと思っています。
それが後になって間違いだったと気付いたとしても、その時言葉にしなかったらそれにすら気付くことができないし、いつまでたっても停滞したままになってしまうから。
私が望むのは、世界中全ての人の『幸せ』
この世界が『永続的』に続いていくこと
世界中の人たちが好きなことをやって、お互いを尊重し合い、全ての人が自分らしく、豊かな心で満ちあふれている世界にしていきたい。
「自分にはこれしかできない!」という形で、自分が本当に好きなことで、その目標を実現できるように、誠実な心と丁寧さを忘れずに、進んでいきたいと思います。
一人でも多くの人の役に立ちたい。
心に寄り添える人でありたい。
そして、死ぬまで自分の「軸」は大切にしていく。
最後に。
私にとってのサッカーとは?
それは
『生きる本質を教えてくれるもの』です。
そんな素晴らしい経験をさせてくれるサッカーに、今日も感謝です。
泣き虫オバケ。(笑)
サッカーが好きだ。
YUKI