今日は、佐藤明由先生と田中康志先生(命日2017年2月22日)のお墓参りに行く予定でしたが、体力が戻らず延期させて頂きました。

 

 19時00分~20時45分は、横浜道場(領家中学校体育館)の稽古でした。最終週という事で「組手模擬試合」をしました。

 

 さて、タイトルの件ですが、昨年(2023年)のブログで「本日『2.26事件』に日ですが、書きたい気持ちがありますが、準備不足でした。現在の日本の状況を考えると触れなくてならない問題化と思います。機会がありましたら、書かせて頂きます。」と書きました。という事で、本日書かせて頂きます。

 

 事件は1936年2月26日に起きました。陸軍の青年将校等が兵約1,500名を率い大規模なクーデターを断行しました。それが『二・二六事件』です。このとき高橋是清(たかはしこれきよ)、斎藤実(さいとうまこと)など首相経験者を含む重臣4名、警察官5名が犠牲になりました。事件後に開かれた軍法会議では、「非公開、弁護士なし、一審のみ」で、刑が確定しました。主謀者の青年将校ら19名(20~30代)を中心に死刑判決となり、、事件の首謀者及び将校たちの思想基盤を啓蒙した民間思想家の北一輝及び西田税が銃殺刑に処されました。

 

 映画に『226』(ににろく、にいにいろく)は、1989年に公開された日本映画で、題字には副題として「THE FOUR DAYS OF SNOW AND BLOOD」という英文が付されています。ウイキペデイアから転載します。

(転載開始)

 昭和恐慌により拡大する貧富の差に、皇道派の青年将校である野中、河野、磯部、栗原、中橋、安藤らは、「君側の奸」を打倒し天皇親政の政権を作ろうと1936年2月26日、雪の降りしきる夜にクーデターを実行した。 彼らは陸軍の部隊を動かし、岡田首相、高橋蔵相、斎藤内大臣、鈴木侍従長などを襲撃する。 当初、陸軍高官らは彼らの行動に理解を示し、クーデターは成功したかに見えた。しかし、それは事態を収拾しようと画策した陸軍当局による必死の時間稼ぎだった。翌27日に戒厳令が施行される。首相が生き延びており、天皇の御意思が「断固鎮圧」にあることが判明すると事態は一変、政府は勅命により原隊に戻るよう呼びかける。青年将校の多くが軍に戻ろうとする中、当初から消極的で、やるからには逆賊になる覚悟だった安藤輝三だけは、天皇の意思一つに手の平返しで軍に戻ろうとする彼らに怒りを爆発させる。

(転載終了)

 映画は、「二・二六事件の経過を主に陸軍将校の側から描いた作品」(同)であり反乱軍を美化していますが、背景には「昭和恐慌により拡大する貧富の差」があったという事も明らかにされています。

 

 事実、事件の起こる6年前、金輸出解禁と世界恐慌により、日本は深刻な不景気(昭和恐慌)に見舞われました。企業は次々と倒産し、町は失業者であふれました。さらに農村でも農作物価格が下落し、都市の失業者が農山村に戻ったこともあり、農民の生活は大変苦しく(農村恐慌)、自分の娘を女郎屋に身売りする家もたくさん出てきました。

 こうした中でも、当時の政党内閣は適切な対応をとらず、また汚職事件が続発しました。更に不景気のなか、巨大な資本を用いて財閥だけが肥え太る状況が生まれました。このため、多くの国民は政党に失望し、財閥を憎み、満州事変などによって大陸に勢力を広げる軍部(とくに陸軍)に期待するようになっていったのです。こうした国民の支持を背景に、軍部や軍に所属する青年将校たちが力をもち、右翼と協力して国家の革新を目指すようになります。

 実際、過激な計画や事件が続発していきます。クーデターによる軍部内閣の樹立を計画する陸軍青年将校を中心とする桜会、現役の犬養毅(いぬかいつよし)首相を暗殺(五・一五事件)した海軍青年将校、一人一殺を標榜して財界人を殺害する右翼の血盟団などです。

 ちなみに、当時の陸軍には「統制派」(とうせいは)と「皇道派」(こうどうは)という二つの派閥がありました。「統制派」は、陸軍の中枢の高官が中心になった派閥です。彼らは政府や経済に介入し、軍部よりに政府を変えていこうと考えています。これに対して「皇道派」は、天皇親政を目指し、そのためには武力行使などを辞さない一派です。

 両派の対立は、「統制派」が勝利します。ところが1935年、「皇道派」を締め出した「統制派」のリーダーである永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長を、「皇道派」の相沢三郎(あいざわさぶろう)中佐が斬殺する『相沢事件』などがおきました。これに、「皇道派」は大いに力を得て翌年、クーデターを決行したのです。青年将校は天皇を中心とした新しい政治体制を築く『昭和維新』を掲げ、国内の状況を改善し、政治家と財閥の癒着の解消や不況の打破などを主張しました。

 

 2.26のクーデターに参加した個々の人物の気持ちや意図はそれぞれあったでしょう。しかし、このクーデターがどの様な結果をもたらしたかが重要なのです。

 

 結論を言いますと、この事件をきっかけに、更に軍部の政治への発言力が強まり、翌1937年に日本は日中全面戦争に突入します。

 

 クーデターを起こした青年将校たちは「皇道(こうどう)派」といわれ、極端な精神主義的な天皇中心主義で、クーデターによる国家改造を主張しました。陸軍内で皇道派に反対する「統制派」は、クーデターを否定するものの、軍部を中核として官僚・政財界とも提携した国家総動員体制を志向していました。

 

 二・二六事件に先立ち、日本は関東軍の謀略による柳条湖事件をきっかけに中国東北部に侵攻した「満州事変」(1931年)をおこしていました。国内では軍の発言力が強くなり、政党政治や議会が軽視されます。同時に戦争反対勢力や非協力勢力への弾圧を強めて行きました。

 

 事件直後の3月、陸軍は広田弘毅内閣の組閣に干渉し、複数の閣僚候補を「自由主義的だ」として排除させます。さらに、政府は陸海軍大臣の任用資格を現役の大将と中将に限定する制度を復活させました。この後、軍が首相の人選や内閣の命運を左右することになります。

 

 二・二六事件を中心とする時期に、軍は「自立化」したと言えます。

 

 1920年代には、政党の活動が活発で、国際的にも、国際協調と軍縮が大きな流れとなっていました。しかし、二・二六事件前後の時期が日本の大きな曲がり角になりました。排外主義と対外的な危機意識をあおる政治が方向を誤らせたと言えるのです。

 

 或る予備校の面白い講義(記事)がありました。「二・二六事件は失敗したものの、軍国主義が加速していったことをおさえましょう。」という内容です。

(転載開始)

1936年に二・二六事件発生!陸軍の青年将校が反乱をおこす

lecturer_avatar 1932年の 五・一五事件 に引き続き、1936年に 二・二六事件 が発生しました。

陸軍の青年将校らが、首相や大臣を襲撃した 事件です。

将校らは、軍部にとって都合が悪い首相や大臣を殺してしまおうと考えました。

五・一五事件を経て 軍国主義 (戦争を最優先に考え、軍事力をつけようとする風潮)の考え方が広まる中、軍部に反対する人物を排除しようとしたのです。

lecturer_avatar 五・一五事件では犬養毅首相が暗殺されましたが、 二・二六事件は失敗に終わりました。

発生後まもなく軍隊に鎮圧されたのです。

(中略)

二・二六事件は失敗するも、軍国主義は加速していく・・・

lecturer_avatar 二・二六事件が失敗に終わったことで、軍国主義の風潮は弱まった・・・わけではありませんでした。

lecturer_avatar 首相は暗殺未遂に終わりましたが、大臣の中には暗殺されてしまった人もいました。

二・二六事件のあと 軍部には逆らえない、逆らったら何をされるかわからない という空気ができあがってしまったのです。

こうして 軍部の発言力が強まる 一方、議会の発言力が弱まっていくことになりました。

lecturer_avatar 二・二六事件は失敗したものの、軍国主義が加速していったことをおさえましょう。

(転載終了)