熊本でWEB開発もホームページ制作もしないブログ

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熊本でWEB開発もホームページ制作もしない男のだらしないブログ。もちろんPHPやRuby、Python、JavaScriptなどもってのほか。

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はい、全損の告知が来ました。

覚悟はしてました。

もう、レッドブックにも載ってないそうで、査定額は新車価格の10%で10.5万円とのことw

電話はおねぇちゃんだったのでやさしく言いました。

「ふざけんな。」

「なんで損害を与えた側が勝手に価格決めてんの?」

「損害額は損害を受けた側に立証責任があるの。判例もあるでしょ?」

「残存車検費用とか乗換諸費用とかちゃんと計算してる?」

「損害額は俺が調査して決める。書面で出す。FAXがいい?郵送がいい?」

と言うわけで返信用封筒が送られてくることになりました。

あとはネットで同年式同グレードで検索して平均車両本体価格とその他費用を算出するだけ。

今回は10:0だから楽でいいわ。 

まぁ、こっちの保険屋が何もしてくれないってのはあるけど。

皆さんも全損事故で泣き寝入りはしないほうがいいですよん。

停車中のところ突っ込まれました。



ぱっとみ意外と無事そうですが、



ホイールのリムが飴のようにぐんにゃり。



おお、傾いてる傾いてる。



建物の角にはまったので90度に凹んでます。

まったく運が悪いのか良いのか、車の一番硬いところを対角線でやられました。

おかげさまで、私は軽傷。

あと30cmずれてたら運転席直撃でしたね。

車は多分フレームが平行四辺形になってると思います。
多分、全損かな?

きっと誰かが守ってくれたんでしょう。

ありがたやありがたや。
昨日が終戦記念日ということだったので、1日ずれるけど戦争の話でも。
まぁ戦争といっても、さすがに直接は知らない。

祖父は陸軍に従軍していて、叔父は特攻隊の訓練中に終戦を迎えた。
どちらも戦争で命を落とすことはなかった。

私が子供の頃は武勇伝が聞きたくて祖父にせがんだものであったが、
祖父は戦時中のことについては固く口を閉ざしていた。
ただ、
殺さなければ殺される。大人はみんな狂っていた。
お前たちは戦争をしてはならんぞ。

という言葉だけを遺した。
叔父は自身のことを「死にぞこない」といいつづけ、今から15年ほど前に他界した。

そんな感じで「戦争」は自分にとって遠い存在だった。
彼に会うまでは。

彼にあったのは私が21歳の時。仮にH氏としておこう。
H氏はアメリカ人で東京郊外でアメ車のチューニングをしていた。
たまたま私が務めていた会社の倉庫が彼のワークショップの隣で、
私も似たような仕事をしていたのでよくひやかしに行ったものだ。

H氏は俗に言う「ベトナム帰り」だった。
まぁ、言葉は汚い汚い。
彼の影響か工場(こうば)のあちこちから「F◯ckin! F◯ckin!」と声がするので、
どこに工員がいるのかすぐわかる。

そんな感じでくだけたおっさんだったので、いつもくだらない冗談ばかり言い合っていた。
私の片言のシモネタ英語で大笑いしてくれていた。

だがある日そんなH氏の意外な一面を見た。
その日もH氏はガレージのシャッターを開けっ放しで作業していたのだが、
通りすがりの小学生がチューニングカーに興味を示して近づいてきた。
私の職場ではよくあることなので、気にも止めなかった。
するとH氏は、
突然キレた。
もう顔は普段に増して真っ赤で、大声で怒鳴りつける。
最初の「Go Away!」ぐらいしかわからなかった。

私はわけもわからずにH氏をなだめようとしたが、
H氏は手元の工具を子供に投げつけようとしている。

私はこりゃ普通じゃないと思い、H氏を遮るように子供達との間に体を入れて、
「ここは危ないから離れようね」と子供達を逃がした。
子供達もH氏の異常さに気づいたのだろう、そそくさと離れていった。

H氏は興奮収まらずといった感じで、もう話しかける雰囲気ではない。
私は若い工員に顔を向けるが、工員はあの外人がよくやる「下顎を前に出して首を横に振るポーズ」をとるだけだ。

さすがに居心地が悪かったので私は挨拶だけをしてその場を去った。

社に戻ってその事を同僚に話すと、私以外は皆、H氏の行動について知っていたらしい。
H氏はベトナムの最前線でベトコンと戦っていたこと。
そしてH氏と同じ小隊の隊員が彼の目の前で戦死したこと。
その隊員が走り寄ってきた子供にお菓子をあげようとしたら、
子供は隠し持っていた手榴弾を取り出して、ためらわずピンを抜いたこと。

まるで映画のような話だった。
子供達はそうすると米兵からお菓子がもらえると大人たちに教わっていたのだ。

そういうわけで、H氏にとって東洋人の子供はすべてその時の子供に見えるらしい。
私はその時はまだPTSDという言葉も知らなかった。

そういう状態にもかかわらずなぜ日本に居たかまでは知らないし、
そこまでプライベートな部分に立ち入るような関係でもなかった。

だがその時、祖父が多くを語らなかった理由もわかったような気がした。

時間が心の傷を癒やしてくれるのかどうか。

その答えは祖父が棺桶まで持っていったので、私にはわからない。