前回の記事、「【ピアソラ】パリ留学時代の作品」の続きです。
1955年、パリ留学からの帰国後に結成した先鋭的なブエノスアイレス8重奏団は一部では絶賛されましたが、当時のタンゴ界にはまだピアソラの新タンゴを受け入れる下地はありませんでした。
失望したピアソラは1958年に新たな活動の場を求めてニューヨークに移住し、アメリカ市場向けにジャズ・タンゴという方向性で活動を開始しましたが結果は芳しくなく、彼の音楽はアメリカではほとんど話題に上がりませんでした。
特筆すべき新しい展開もなく、音楽的にも収入的にも人生最悪といえる不本意な生活を強いられていたピアソラに追い打ちをかけるように、1959年の終わりごろ父ビセンテ(愛称ノニーノ)の訃報が届きました。
敬愛していたノニーノの死に打ちのめされたピアソラはアパートの一室に閉じこもり、パリ時代に父に捧げて作曲した「ノニーノ」をバンドネオンで演奏していましたが、やがて鎮魂歌風の新たなパートを続けて演奏し始め・・・・これがピアソラ自身が「これを超える作品は書けなかった」と後に語る名曲「アディオス・ノニーノ」の誕生であり、彼の人生においてもターニングポイントとなった瞬間でした。
その後、アメリカでの活動に見切りをつけて1960年にアルゼンチンに帰国したピアソラは、以降の彼の活動の中核となる五重奏団(キンテート)をはじめとした新たな活動を精力的に展開していきます。
まるで父親の死によってすべての迷いが断ち切られたかのように・・・・
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ピアソラの評伝『ピアソラ~その生涯と音楽』ではこの父の死に着目し、この出来事の後から公私ともにピアソラの生活が激変することを指摘しています。
バンドネオンを買い与え、自分をタンゴの世界に引き入れるきっかけを作った父。
「よき父親」「よきアルゼンチン人」であり、ピアソラがタンゲーロ(タンゴ演奏家)になったことを誰よりも喜んでいた父。
・・・・その父を失って、ピアソラの心に大きな動揺と分裂が生じたと評伝では分析していますが、実際にこの父親の死と「アディオス・ノニーノ」以降、ピアソラの結婚生活や人間関係は破綻していくことになり、音楽面でもより過激な「タンゴ革命」に乗り出していくことを考えると、これは興味深い視点です。
そしてこの葛藤と混乱を極めた時期が彼が最もクリエイティブで重要な活動をしていた時期とも一致していることは、見逃してはいけない事でしょう。
1984年の後期五重奏団によるライブ動画。
この時期のピアソラは欧米諸国を中心に年間150本以上の本番をこなしており、その名声が世界にとどろき始めていたころでした。
キンテート(五重奏団)による濃密な演奏はそれまでピアソラを知らなかった人々に衝撃を与え、各地で絶賛されました。
たった二人なのにこの熱さ・・・ピアソラ本人と前期五重奏団で活躍したギターの名手カチョ・ティラオとのデュオ。
ピアソラももちろんすごいですが、バンドネオンに負けないカチョ・ティラオの厚みのあるサウンドも負けていません。
短いバージョンながらも素晴らしい名演。二重奏ならではの親密な雰囲気もいいですね。