●16年目の父の命日に思うこと | FUTA

●16年目の父の命日に思うこと

2024年6月26日(水)



16年前の今日、父が世を去った。


富山出身の父は高卒で地方銀行を勤め上げ

支店長には届かなかったけど

退職時は支店長代理となっていたので

銀行という組織体質を想像するに

父はかなり努力して出世したのだと思う。


父は銀行では一貫して貸付業務に携わり

富山、金沢、函館、札幌、東京と転勤し

昭和の数々の会社を支えてきたのだろう。

いわゆる高度成長期の企業戦士だったのだ。


もちろん当時は単身赴任なんてなくて

我が家は父の転勤のたびに引越し・転校を

繰り返し続けてきたのだった。


そんな昭和の企業戦士の父は

もちろん朝早く家を出て

終電で帰ってくるという毎日で

ボクはあまり父と過ごした思い出がない。


正直に言うとボクはそんな父のようには

なりたくないと子供心に思い続けていて、

学校の勉強はしっかりやっていたのだけど、

高校生の時に親に黙って

免許を取ってオートバイに乗り始めると

いつも穏やかだった父がいきなり

ボクを殴ろうとするほど激怒して

母が父を羽交締めにして抑える

みたいな出来事もあったんだけど、、、


きっと父は学歴がなく苦労したから

ボクには大学に進学させて

しっかりとした企業に勤めてほしいと

願っていたのだと思う。


そんな父の期待には応えられずに

理工系を目指した大学受験にも失敗し

パンク精神を蓄えたボクは紆余曲折を経て

昭和世代の両親には全く理解できない

グラフィックデザイナーとなったのだった。


そんなボクが帰省するたびに両親は

オマエはいったい何の仕事をしているんだ、

と何度も聞かれてその度に

これこれこういう仕事だと説明するんだけど

いっこうに理解されることがなく。。。


そんな日々からボクは20歳台後半になり

ホンダの自動車の新聞広告を担当したり

毎日新聞社の広告賞を受賞するなどすると

ようやくボクの仕事を認めてくれたのでした。


その後、ボクは独立起業して

着々と会社を大きくしてゆき

ある時、定年退職していた父に

ウチの会社の経理顧問になってほしいと

お願いして月に一度、青山にあったボクの

会社にきてもらうことにしたのでした。


その頃のボクは仕事も夜遊びも絶頂で

毎晩のように朝まで飲んで帰るという日々。

月イチで東京に来てくれていた父とも

会って話すと言うことが全くなかった。


これはボクの人生の中で

最も後悔することになったのでした。


あの頃は父が死ぬなんて

バカみたいだけど

想像もできなかったからです。


あの時が、父と時間を共に過ごして、

父と語り合う最後のチャンスだったのに。。





2008年6月26日の夕方。


当時西麻布に移転していたオフィスに

妹から電話があって


「お兄ちゃん、お父さんが、、、」


妹から父に渡されたであろう

受話器からは吐息しか聞こえてこなくて


「お父さん、ありがとう!」


と、ボクは一言だけしか言えず

絶句してしまったのだった。


東京から富山までおよそ350km。

その距離を繋いでいる電話線に乗って

ボクのその一言は

父の耳に届いてくれたのだろうか。。。


その後、

病室で父を看取った妹の話によると

父はボクとの電話のあとに

安心して眠るように逝ったとのことだった。


昭和の企業戦士だった父と

一緒に過ごした思い出はあまりなく

しかもその転勤でボクは

高校生の時に東京で一人暮らしとなり

なんだか家族とも分断されたような

青春時代を過ごすこととなったのだった。


そんなボクはいま

幼い息子と毎日のように

笑い合いケンカする日々を過ごしてます。


父と過ごして語り合ったりできなかったボクは

息子がイヤと言っても一緒に過ごしてやろうと

父の命日にあらためて思うのでした。