●イージー☆ライダーが教えてくれたこと | FUTA

●イージー☆ライダーが教えてくれたこと

2019年8月16日(金)


ピーター・フォンダが亡くなったそうだ。

1969年公開のイージー☆ライダーで製作・脚本・主演を担当して
この時代のアメリカ映画の代表作ともなった。

60〜50歳代のライダーにとってこの映画は特別なものとなっている人も多いと思う。
ボクはこの映画でバイク乗りになったといってもいいほど影響を受けた。

映画自体を観たのはバイクに乗るようになった高校生になってからか
あるいはその後の学生時代かもしれないけど
中学生の頃に映画のポスターにハマった時期があって
このイージー☆ライダーの有名なポスターをボクは部屋の一番重要な場所に貼って
いつもカッコいいなぁと眺めていた覚えがある。

この歳の頃はバイクには特に関心はなかったので
おそらく単にこの2台のチョッパーが並んで走っている姿を
あるいはこのふたりのファッションに何かを感じていたのかもしれない。



いまちょうど平野啓一郎著「カッコいいとは何か」という書籍を読んでいる。


小説家の平野啓一郎さんはこれまで
「カッコいい」という概念が検証されたことがなかったと指摘し
「カッコいい」とはそもそも何かということを歴史社会学も踏まえて紐解いている。
それによると日本語として「カッコいい」が誕生したのは1960年くらいかららしい。

ボク自身、「カッコいい」をずっと追い求めてきたのだけど
これがなかなか手強くて「カッコつける」とカッコ悪くなるという
パラドックス的なことに陥ることがしばしばで
これはつまり自身がカッコよくありたいという願望を実現するために
どうしたらいいのかという問いかけを続けてきたのだと思う。

平野啓一郎さんはこの「カッコいい」を実に10章500ページで説いておられ
ボクがもやもやと考えていた「カッコいい」をだいぶ納得できるものとしてくれた。

平野さんによると、そもそも「カッコいい」はミュージシャンから生まれた言葉のようで
60年代のジャズからその後のロックによるシビれるような身体的体験が基礎となってるとのこと。
この体験に憧れた同化・模倣願望が「カッコいい」の本質ではないかという。

確かにボクが追い求めるカッコいいもそうした過去の体験によるところが大きい。

ボクがバイクチームの先輩方たちと初めて出会った
高校生の時は彼らのカッコよさにシビれるような体験をしたし
その後、少しでも近づきたいと思い「模倣して同化」を目指して走っていた。

ロック小僧がエレキギターを買ってロックスターの真似をするのと全く同じ(笑)

ボクはたまたまそれがバイクでありその走り方であり
彼らのファッションスタイルであったということだ。

もちろんこのバイクチームはアメリカのヘルズエンジェルズを模倣して
そのスタイルを作っていったのは否めないところだけど
当時のミュージシャンたちが欧米発祥のロックを努力して
自分たちのものにするため解釈していったのと同じように
ボクが同化したいと思ったバイクチームも日本でのあり方を構築したのだと思う。

それから数十年が経ちボクたちのスタイルへの模倣が始まったのだとしたら
ボクたちはカッコいいという評価を作り上げることができたのかもしれない(笑)

一方で平野さんによるとカッコいいは「ダサい化」で消費されるという。
カッコいいスタイルは大衆化することによってダサいことになって
また新たなカッコいいが生まれるエネルギーとなるのだと思う。

バイク乗りのファッションも商業的な思惑で発展してきたのだと思うけど
それまで割と少数派だった革ジャンスタイルが再評価されて
ダブルライダースにチャップス、革のカンバンというスタイルが
今のように一部で一般化したのは雑誌RIDEの影響が大きかっただろうな。

これはつまりファッションの大衆化に他ならなくダサい化の典型とも言える。
ボクはいわゆるそういうライティングファッションではないけど
ボクたちのバイクチームのスタイルがダサい化しているとしたら
ボク個人としては耐えられないし変わらなければならないと思う。

いや、変わらないという価値観ももちろん大切なのはわかるけど
伝統は進化してこそ存続できるという歴史からも学ばなければならないのだ。


そしてイージー☆ライダー。

これこそバイカーにとって普遍的な「カッコいい」を残したした映画となった。
若かったボクにとってはアメリカ社会のことなど知るよしもなかったけど
彼らがチョッパーで走り出した瞬間にそれがボクの人生のアイコンとなってしまった。

ロック小僧はロンドンパンクの反体制に衝撃を受けたのだと思うけど
バイク小僧のボクはピーター・フォンダとデニス・ホッパーの反体制に
「シビれる」ほどカッコよさを感じたのだと思う。