631.「あきらめる」ということ | グランマ&コーチyokoの『素直が一番』

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長年、塾の指導者、主任児童委員(子ども専門民生委員)、ママの専門コーチとして、
又、私自身も3人の息子の母として、子育て中のママ達を応援して来ました。
アラ古希の今、仕事を卒業して、一人のグランマさんとしての思いを、気ままにおしゃべりしていきます(^^)

皆さま

 

こんにちは。

 

「グランマyokoこと東郷洋子」です。


今日も、自分の心の徒然なるままに書いていきたいと思います。
読んで頂けたら嬉しいですニコニコ

 

 

時折、私のブログ記事を読んで、

「洋子さんは書いてあることが全て出来ているから、

こうしてブログや講座でシェアしているんだ!」

とありがたい勘違いをして、私を偶像化して下さる方がいらっしゃいますが、

 

歯を磨いたりすることをわざわざ書かないのと同様に、

空気を吸うように出来ていたら、わざわざ書きませんよ。

 

ブログ記事に書いてあることのほとんどは、

「発展途上中の私への応援メッセージ」ということも大いにありますニコニコ

 

と、先に長々と言い訳をしておいて(笑)

今日の記事にいきますね。

 

 

私たちは一般的には、 「あきらめる」とは…

自分の望みが叶わず、思いを断念するという意味で使われます。 

 

 しかし、「あきら(諦)める」の語源は…

「明らかにする」が本来の意味だそうです。 

 

サンスクリット語の「諦」は、真理、道理を意味すると言われ、 

仏教でも「執着しないこと」と説いていると聞きました。 

 

私たちは常に比較の中にいます。 

今よりもっとこうだったら良かったのに。 

どうしたら、今より良くなれるか。 

他の可能性はあるか。 

求めて追いかけて、もっともっと。 

そこに終わりはありません。 

 

その根底には、常に「今」に満足していない自分がいます。 

「今ここ」にいながら、頭の中の空想のストーリーに忙しく、

 無いものを求めて、「今」あるものを見逃します。 

 

 でも、本当に在るのは、「今」だけです。 

 それは、自分、自分以外の人に対してもです。 

 

自分の中で「こうあるべきだ」というイメージに固執しているから、 

そのイメージと自分や相手が違っていると、 がっかりする。イラッとする。苦しくなる。 

 

 

昔、私が中学生のママだった頃、 

PTAの役員会で先輩ママから言われた言葉があります。 

それは、子どもの成績の話をしていた時、 

 

「いいこと教えてあげようか? 子どもの為を思うなら、成績のことをあきらめること。」 

 

この時の言葉は今でも私の宝となっています。 

相手を自分の「期待」通りにしようとする執着を手放すこと。 

その人がその人でいることを、ちゃんと認めること。 

 

そうすると、リアルな「今ここ」に、光の焦点が当たり、 

その人らしく生き生きとすることにつながるような気がします。 

 

相手がこちらの期待通りにしない理由は、 

こちらの期待が原因だったりするのですね。 

 

 

「あきらめる」とは、「明らかに見る」こと。 

すべては予定通り! 

人生を信頼して、リアルな「今ここ」を心を込めて生きること。 

心がゆるふわっと寛ぎます。

 

それを「聖なるあきらめ」と言うそうです。

 

 

今日の画像

先日、夫と名古屋市営地下鉄の名城線と桜通線を使って熱田神宮に初詣に行ったら、

告知通りに、計4駅の名称が変更になっていました。
 
名城線の「市役所」→「名古屋城」、「神宮西」→「熱田神宮西」、「伝馬町」→「熱田神宮伝馬町」
桜通線の「中村区役所」→「太閤通」
 
名古屋市は、駅名に観光地の名称を取り入れることで、
多くの観光客を呼び込みたい考えということです。
にもつながって、分かりやすくなって親しみが湧きますねニコニコ  

 

 

 

今日の万歩計備忘録

1/7~7155、1/8~8523

 

 

今日も読んで頂いてありがとうございます。

 

また次回のブログでお会い出来たら嬉しいです(^^)