むかし、室羅(しつら)城中に演若達多(えんにゃだった)という人がいました。
この演若達多は、神さまの申し子といわれるだけあって、なかなかの器量よしでしたので、うぬぼれ、毎日鏡に自分の顔を映しては楽しんでいました。
ところがある日のこと、なにをあわてたのか鏡の裏を見ました。
「あっ!頭がない」
いくら見ても顔が映らないものですから、これはてっきり盗まれたと思ったのでしょう。
それから大さわぎをして自分の頭を探しまわった……という話が『楞厳(りょうごん)経』の中に説かれてあります。
わたくしたちが外に向かって求めているのは、ちょうど演若達多が自分の頭がないといって探しているようなものだ、というたとえ話です。
外に向かっている心を自己の内に向けてみなさい、なんの欠けたところがありましょう。
「山僧与麽(よも)に説く、意什(いずれ)麽の処にか在る、秖(た)だ道流(どうる)一切馳求(ちぐ)の心歇(や)むこと能(あた)わずして、他の古人の閑(かん)機境(ききょう)に上るが為なり」(わたしがこのようにいろいろと説いている、その意旨はどこにあるかというと、ただ皆の者が馳求の心を断ち切ることができなくて、古人がこんなことを言われた、あんなことをされた、この経文にはこう説いてある、あの本にはこう書いてあるなどと、向こうにばかり気をとられて、自分の脚下をおろそかにしているからだ) (臨済録)
なんとかして馳求の心を断ち切らそう、なんとかして造作することをやめさせようというのが、臨済禅師の御意旨であります。
『臨済録』をひもといてみますと、随処に、はげしいばかりの言葉をもって説いておられます。
馳求心さえなくなれば、そこにおのずから仏性は現前するのであります。
「儞(なんじ)、若し能く念々馳求の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず」
と臨済禅師も申されるように、念々馳求の心を歇得し、「無事」に徹すれば、そのまま祖仏と別ならざる人、すなわち「貴人」なのであります。
(了)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させていただきました。
ここも体得の世界のことですから難しいです。
でも、「あの人はこう言っている」「この本にはこう書いてある」というのは、どこか他人事のような感じがするのは確かです。
本を読んだり、人の話を聞いたりするのは、単なる知識を得るためではなく、自分が悟りを得るためだということを忘れてはいけませんね。