始(はじめ)は芳草(ほうそう)に随(したが)って去り、又落花(またらっか)を逐(お)うて回(かえ)る (碧巌録第三十六則)
長沙景岑(ちょうしゃけいしん)禅師が、ある日、ブラッと散歩から帰って来られると、山門のところでバッタリ首座(しゅそ)に出会いました。
「和尚、什麼(いずれ)の処にか去来す」(どこに行って来られたのですか)
これはちょっとみると、普通世間並みのあいさつのようですが、なんといっても門下の第一座をつとめる主座のことですから、そんな通り一ぺんのことであろうはずはありません。
実は、長沙を一つためしてやろうという魂胆があるのです。
それに対して、
「遊山して来たる」(ちょっと遊山して来たんだよ)
長沙は無邪気に、いともあっさりと答えられました。
(つづく)
(※)
「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させていただきました。
主座のこの問いがどういう意味のものなのか、どのように試しておられるのか、まったく分かりません。
でも、このような日常的な会話の中にも、さまざまな問いがあり、試そうとされるのですから、禅の世界は油断ができませんね。