【禅】説似一物即不中 (3) | 対人恐怖で悩む内向型治療師のブログ

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私は対人恐怖で、緊張すると手が震える小心者の治療師ですが、
それでも30年余、延べ10万人も施術してくることが出来ました。

その経験から、対人恐怖でお悩みの治療師のみなさんに、
メンタルや施術方法についてお話したいと思います。


これと同じような話があります。


それは京都東山の高台寺で鉄斎(1836~1924)門下の書画会があったときのことです。


席上揮毫の末席で山水の画を描いている一画生の前へ、茶色の法衣をきた僧が立ち、しばらくながめていましたが、フト尋ねました。


「おまえさん、いったい何がそのように画を描いているんだね」


こういわれて画生は返答に困りました。


筆でもない、手でもない、そうかといって心でもない、いったい何がこのように描いているのだろう。


そばにいる先輩たちに尋ねてみましたが、もちろん相手になってはくれません。


それ以来このことが脳裏から離れず、禅書も読み、法話も聞きに行きました。


しかし満足な解答を与えてくれるものは一つもありませんでした。


日に日に深まる疑問に堪えられなくなった画生は、ついに師匠鉄斎に事の次第を打ち明け、いとまを乞いました。


しかし鉄斎はその才能を惜しんで許してはくれません。


やむをえず、ある夜同家を抜け出し、そして筆をなげうって一介の修行僧となり、諸国を放浪して回った後、天竜寺の峨山(がさん)禅師の門にはいったのでした。


この画生こそだれあろう、後に相国寺の管長になられた独山禅師であります。


「甚麼物(なにもの)か恁麼(いんも)に来たる」「甚麼物か恁麼に描く」、言葉はきわめて簡単ですが、それを一大疑団にまで発展させ、その解決に敢然として立ち向かっていった古人の苦修のあとを、わたくしたちも大いに学ばねばなりません。



(了)








(※)

「茶席の禅語」(西部文浄著) から引用させて

いただきました。 
















私が画を描いているときに同じ質問をされたら「手が描いている」「心が描いている」くらいの答えしかできないと思います。

その後、その質問をすっかり忘れ去ってしまうような気がします。

この茶色の法衣を着た僧は、なぜこの画生に質問したのでしょう。

何か見所がある画生だと思われたのでしょうか。

人を見る目のあるこの僧も素晴らしい僧だと思います。