カレーライスの混ぜるか混ぜないか論争は、味覚に依存している部分が少ないがゆえに、最も繊細な問題なのではないかと思っている。「食べれば全部一緒」は胃袋で考えてしまっていて、実はどっちの論者も否定してしまっている。食の好みは、味覚と胃袋以外にも反応することが多いのだ。
ところで、そもそもこの週1エッセイは、何故始めようかと思ったのは、ギャロップエッセー大賞に送った作品が、なんら連絡もなかったので落選したんだなと判断。元々書きたいことを書こうとしたら文字数がまったく足りなかったので、完全版をブログで発表しようと思い立った。そのための練習として、しばらく物書きしてなかったリハビリとして書き始めたのだ。ところが、いきなり最終選考に残りました!と紙面発表されてしまったので、完全版の構想は宙吊り。食エッセイの第1回は手元に残った。ならば、もうどうなるかが決定するまでこっちはこっちでやっていくかと、毎週1本書いていくことになった。
結果は皆さんご承知の佳作を受賞したので、完全版自体の予定は消滅してしまったのだが。このエッセイも完全版のための練習だったので、そこまで長くやるつもりは元々無く、よって、本編の本誌掲載までのお付き合いとなります。
話をカレーライスに戻そう。
混ぜる、混ぜないとなると、混ぜない派がやや過敏傾向にあるとは、混ぜない派自身からみても正直に思うところ。「元々混ぜてある外食メニューとしてのカレーライス」はOKという混ぜない派は多いからだ。これは先の胃袋派もご立腹のダブルスタンダードと言われてもしょうがない。
しかし、ご飯にルーがかけられているタイプとなると別なのだ。
これはもう、本当に些細な、しかし、繊細なお話。人によっては混ぜたものは見た目がダメだというだろうし、皿が全体に汚れるのがダメだというかもしれない。はっきりとした区別のつかない味になってるのがダメだともいうだろう。
個人的には子供時代の体験が大きい。その頃は混ぜる派の母親に育てられていたので、カレーライスが出されたら、まず混ぜ混ぜしてからおもむろに食べる、完全に混ぜる派だったのだ。
しかし、あるカレーライスの日、すこし食卓につくのが遅れたところ、「はい、もう混ぜておいたよ」と母親の手によって既に混ぜられた状態で出されてしまった。
つくるョは激怒した。必ず、かの 邪智暴虐の母の行為を除かなければならぬと決意した。つくるョには親心がわからぬ。つくるョは、児童である。以下略。
しかし、正直その「お仕着せ」行為に大きく反応したのは事実である。「親心」が「食事を支配的に蹂躙された」と感じたのだ。幼くても、そういう歳になっていたのだ。親離れの第一歩である。それ以来、蹂躙されまいと防衛策として、カレーライスは混ぜない派に転向した。
カレーライスを混ぜないのは、自由と自立の象徴なのである。