さて、福岡ソフトバンクホークスを今回選んだのは、売上、選手総年俸、強さを完全に読売ジャイアンツを超えたからです。若い人は知らないかもしれない。が、読売ジャイアンツ(巨人)はプロ野球の1位の強さと人気とお金があって、超一流高校球児は巨人以外入団拒否したり1年浪人して巨人に入ったりしています。なぜなら、巨人に入れば、球場満員で人気選手になれる。何億円の高年俸選手になれる。テレビ視聴率が毎日20%を超え、引退後もメディアやその他の活動も優遇される。日本人男子が野球ファンで、野球ファンが全員巨人ファンと言われていた。その巨人にソフトバンクが超えたというのは凄いことで、どれくらい凄いかというと日本が経済力と軍事力と影響力がアメリカを超えて、イギリスや中国、ロシア、フランスなどが「日本はアメリカを超えた」と驚いていると同じくらい凄いことです。日本の経済力がアメリカを超える。日本が世界のリーダーになってアメリカ、イギリス、フランス、中国やロシアが日本の総理が集まれと言ったら集まるのはあり得ないでしょう?それくらい凄いことです。

 

 福岡ソフトバンクホークスは前身は南海ホークスです。

  

 1938年に南海鉄道が親会社とする南海軍が結成された。阪急の小林十三が南海の社長に設立を勧め決まった。本拠地は大阪府堺市の堺大浜球場。日本職業野球連盟の総会で加盟が承認された。南海は戦前、堺市にあった中百舌鳥球場を本拠地にしていたが、大阪市はともかく神戸市からのアクセスに悪い。そもそも数万人を収容するスタンドを設けておらず公式戦開催は非常に少なかった。特に戦後は、当球場の完成を間近に控えた1950年6月に1試合、7月に1試合が開催されただけであった。1948年に南海が優勝した際、GHQ経済科学局長のウィリアムマーカット少将の「ホームグラウンドはどこか?」との問いに、南海球団が「大阪府が本拠であるが、自前のグラウンドがないので甲子園を使わせていただいている」と答えると、マーカットは自前のグラウンドを建設してもいいと提案した。当時は保護地域や本拠地といったフランチャイズ制度が未整備だったが、規定に向けた流れはあり、実際に1948年はフランチャイズ制度が試験導入された年でもあった。そこで、これまで公式戦を開催したことのなかった大阪市に目をつけ、大阪市浪速区蔵前町(現:難波中二丁目)に所在し、大阪地方専売局大阪工場の跡地を払い下げてもらい自前の野球場を建設する流れとなった。南海と同じく大阪を拠点とする大陽ロビンス(のち松竹ロビンス)も大阪市に目を付けており、北区玉江橋の関西相撲協会の所有地を買収して野球場建設候補地にあげていた。阪神本線と阪急神戸本線沿線にそれぞれ阪神甲子園球場と阪急西宮球場を構える大阪タイガースと阪急ブレーブスは「ターミナルの梅田に近く、客を奪われる」ことを恐れて玉江橋球場建設に反対、阪神電鉄、阪急電鉄、南海電鉄による難波球場建設を支持した。工期わずか8か月の突貫工事で、1950年に完成。

大阪球場、大阪スタジアム(ウィキペディア引用)

 

グラウンドの狭さから、当たり損ねの打球が外野フェンスを越えて本塁打になってしまうなど、投手泣かせの球場であった。1951年に関西地区の球場で初めて夜間照明設備を設置した。初ナイターを開催した。内野スタンドに日本初のボックス席を設けたのも本球場である。

 

 1950年から1960年代まで南海の黄金期であり、毎年優勝争いを繰り広げており関西では南海は阪神をしのぐ人気球団であった。南海電鉄も出資者であった毎日放送に当球場での南海戦の独占テレビ中継契約を結び、この年に南海が日本一を達成したこともあって社史にこの契約を「一大ヒット」と記した。しかし、この成功を背景に1960年に南海側が放映権料をつり上げたことで毎日放送は契約範囲を縮小、さらにその1961年には南海との交渉を断念して、テレビの野球中継自体を大幅に縮小し、テレビでの露出が減少する結果を招いた。1960年代半ば以降はプロ野球のテレビ中継において在京キー局の発言力が増大し、放送カードがセリーグの読売ジャイアンツ戦が多くを占めるようになった。その結果、関西では唯一同じセリーグ所属の阪神に「巨人の対抗馬」として人気が集中、南海戦の中継減少もあいまって、パリーグの人気は長期低落傾向をたどった。さらに1970年代後半以降の南海の急激な弱体化で本球場の観客動員数は低迷を極めた。南海本線および事実上の南海高野線の大阪側ターミナル駅であり、大阪の一大繁華街ミナミの玄関口である南海難波駅に隣接するという好立地にもかかわらず、球場を管理していた大阪スタヂアム興業の社史には、本球場の年間観客動員の実数が1965年以降、南海最終年の1988年まで一度も50万人を超えなかったことが記されている(公式発表上では1988年の91万5千人が球団史上最多動員であった)。

 利用者にとっては好立地であったものの、南海電鉄にとっては必ずしも好条件ではなかった。本来鉄道会社が球団経営する場合、阪神甲子園球場と甲子園駅、阪急西宮球場と西宮北口駅、本拠地球場は自社沿線の郊外地に構え、利用者の多いターミナル駅などから球場最寄駅までの運賃収入に貢献させるのが常策だが、大阪球場の場合はターミナル駅が球場最寄駅となったことから、南海電鉄以外にも国鉄や大阪市営地下鉄、ライバルである近鉄難波線(1970年開業)でも来場可能であり、運賃収入が見込めなかったことから、南海電鉄本社でも球団の売却が労使闘争で常に槍玉に上がる状況であった。南海自前の球場だったが、1957年まで近鉄パールスも大阪球場を本拠地としていた。1950年に事実上の本拠地とした藤井寺球場にナイター照明設備がなかったためで、同じパ・リーグの2球団が本拠地とすることにも限界があり、近鉄は1958年から日本生命球場を本拠地とすることとなった。藤井寺球場は近隣住民の反対によってナイター照明設備の設置が遅れ、近鉄バファローズが日本シリーズに出場した際、日生球場の最大観客収容人数がシリーズ開催基準の3万人以上に満たず、藤井寺球場もナイター照明設備が依然としてなかったため、近鉄はやむを得ず両年とも大阪球場を借り、日本シリーズの開催地とした。

 

 大阪球場がなんば駅1950年に出来た。当時阪神タイガースより人気があったが、セリーグとパリーグに分かれ、大人気球団読売ジャイアンツのライバルである阪神タイガースへ人気が集中。テレビの中継も減少し、観客動員数も低迷。しかも大阪球場もなんばという立地の良さから南海鉄道に乗る必要がないため鉄道収入も得られない。最終的に南海はホークスを手放した。

 

 この時の観客動員数は1954年阪神が68万人、南海が73万人で南海がトップ、阪急39万人、近鉄が21万人で上位グループと下位グループで分かれています。南海のほうが人気がありました。しかも、その後も南海と阪神は観客動員数で抜きつ抜かれつのデットヒート。素晴らしい戦い。1950年に大阪球場を南海は難波に作りました。この頃の南海は何度も優勝して常勝球団で人気球団。さらに南海が人気があるのはナイター施設があり会社帰りに試合が見に来れた。難波は便利ですよね。甲子園球場のナイター設備は大阪球場ナイター設備の5年後に完成。1956年に甲子園球場にナイターが出来ると劇的に観客動員数が変わりました。結局巨人戦がみんなは見たかったんですよ。あと南海は放映権料を高くしてメディアからひんしゅくも買い放送してもらえなかった。阪神と南海が決定的に人気の差が出る試合がある。1959年6月25日巨人阪神戦。これは昭和天皇が観戦する天覧試合。ものすごく名誉あることであり、日本中が注目を浴びた。シナリオがあるのかというぐらい試合である。巨人はエース藤田元司、阪神はエース小山正明が先発。この試合は点の取り合い。阪神リード、7回の裏に王貞治の同点ホームラン、9回の裏に長嶋茂雄がサヨナラホームランと誰か脚本を書いてない?という試合展開でした。これは全国放送をされ日本中が注目し、阪神人気が決定的になった。

 

 南海は1960年70万人いた観客動員数が1969年47万人まで減り阪神は同年63万人から103万人まで増えた。1965年から1973年に巨人が9回のセリーグ優勝と日本シリーズ優勝というV9時代が到来。この時期が巨人の歴史史上最大の人気があったと言っても構わない。観客動員数は現代のほうが多いとはいえ、この頃の巨人は日本人=野球ファン=巨人ファンという方程式が出来ていて、この頃の子供たちの好きな物は巨人大鵬卵焼きと言われるくらいだ。現代で巨人が人気があると言っても、熱狂度とファンの数は圧倒的にこの頃だ。テレビ放送が始まり毎日視聴率20%越え、この巨人のライバルとして阪神タイガースが大阪府民の心をつかんだ。

 

ダイエーホークスが福岡に来る前に福岡には、西鉄ライオンズがあった。西鉄ライオンズは、1949年に西鉄クリッパースを作った。51年1月に西鉄クリッパースと西日本パイレーツが合併し、西鉄ライオンズが誕生した。

最初パリーグ内でも上位に食い込み1954年には初のリーグ優勝をはたした。1956年から1958年は3連覇を達成し、西鉄ライオンズ全盛時代を築いた。1959年からは低迷期に入る。63年に再び優勝したものの、これが西鉄ライオンズ最後の優勝となった。1972年、西鉄は球団経営権を譲渡。太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと名前を変えながら、福岡でプロ野球の本拠地とした。しかし、1978年経営難のため球団経営権を西武グループに譲渡。ライオンズは、埼玉県所沢市に移り、西武ライオンズが誕生した。

 

 福岡にプロ野球を残すため福岡からプロの球団がいなくなってからも、西武ライオンズを中心とするプロ野球各チームによる公式戦を平和台球場において年間20~30試合程開催した。プロ野球球団との交渉を進めた。その交渉は、ロッテ。ロッテが本拠地としていた川崎球場は老朽化しており、川崎から別の場所への移転が囁かれていた。ロッテ側も準フランチャイズとして千葉や福岡を挙げていた。「プロ球団の誘致活動を始めるにあたり、『アジアの見える新球団』というテーマを設定。アジアの見える新球団とは、韓国や台湾と日本の合同チームによる新球団というイメージです。新球団ができれば、アジアからも人を呼び込むことができる。そういう球団づくりを考えた場合、韓国とつながりの強いロッテが最適であると考えたのです」と振り返る。ロッテを誘致し、アジアの合同チームになれば、アジアの球団になるという夢を描いていたのだ。

  ロッテ本社を交渉。後に、福岡市長になる山崎広太郎氏もロッテとの交渉にあたっていた。フランチャイズを福岡にもってきた場合の採算ラインとして必要な観客動員数などについてデータを集め、ロッテ側から「年間予約席を1000席保証してほしい」と提示された。最終的には4000席まで引き上げられた。どうしても福岡に球団を復活させたいという思いを実現するため、JCは財界の協力を得て、何とか4000席を確保できるまでに話をまとめた。ところが、ロッテ側からは「もう少し待ってほしい」といなされてしまい、手応えが感じられなくなった。ロッテ側にも事情があった。当時、ロッテは社長・重光氏が母国韓国に「ロッテワールド」を建設中で、巨額の資本を投下していた時期だったため、球団移転について本腰を入れられる状況ではなかったのかもしれない。1988年に入っても、ロッテが福岡に来る気配がない。

 

 ダイエーの南海ホークス買収が表面化した。ダイエーは南海ホークスを福岡にもってくるというのだ。ロッテではなく、ライオンズ時代の宿敵ホークスである。ダイエーは「プロ野球球団をもちたい」と思う決定的な出来事が起きた。それが、1985年の阪神タイガースの優勝である。21年ぶりの優勝に阪神ファンと大阪が熱狂し、社会現象と化した。その熱狂ぶりは、ダイエー社長中内氏の心を揺さぶり、それまで巣くっていた不安を払拭してしまう。「プロ野球は、連日のように新聞の話題となり、大きな宣伝効果も期待できる。これは商売になる」と考えるようになった。しかも、阪神タイガースが優勝した85年は、業界で初めてとなる売上高1兆円超えを達成し、ハワイのアラモアナショッピングセンターを買収するなど、豊富な資金力で事業を拡大していた。球団経営はカネがかかる。しかし、広告塔としての価値は高い。当時、ダイエーが広告費として使っていた予算は200億円ともいわれ、球団経営の赤字は広告費で補てんできる規模だと考えれば、中内氏にとって球団を所有するメリットは大きい。決して高い買い物ではないはずだ。プロ球団の取得を本気で考え始めた中内氏は、当時、セ・リーグ会長を務めていた鈴木隆二氏に球団取得への協力を要請するなど、対象となる球団を探し始める。球団買収のために水面下で動いたのが、中内氏からの信頼が厚かった鈴木達郎専務と福岡ダイエーホークスの初代球団社長となった鵜木洋二氏だった。鈴木氏は、専務として中内氏から絶大な信頼を得ている人物。球団買収の件も、完全に鈴木専務に任せていたようだ。ほぼ決まったロッテとの交渉。買収先として当初、ロッテだった。1987年暮にロッテから球団身売りの話がもち掛けられ、交渉を進めた。ロッテの重光武雄オーナーや球団社長を務めていた松井静郎副社長との会談、行政への根回しも行い、球団譲渡はほぼ確定の状況でまとめ上げていた。店舗に並べるロッテの商品を増やすよう指示が出るなど、社内でも極秘裏に準備が進められていたようだ。中内氏は、球団を買収したら神戸に移転させる構想をもっていた。ところが、ロッテの買収は現実のものとはならなかった。

 

 南海ホークスの買収話がもち上がったからだ。南海ホークスは、50年代から60年代にかけて9度のリーグ優勝と2度の日本一を飾った名門チームである。優勝から遠ざかっていた。赤字経営の球団は、親会社にとって負担となる。南海ホークスの晩年には、赤字は年間10数億円にのぼったという。当時の親会社である南海電鉄にとっては、低迷を続け、しかも赤字を増やし続ける球団は、手に余る存在となっていたのだろう。しかも、南海電鉄は94年の関西国際空港の開港にともない、難波駅周辺の再開発計画を立てていた。その中心にあったのが、南海ホークスがホームグラウンドとしていた大阪球場である。大阪球場は、再開発計画のなかで取り壊しが決まっていた。南海と交渉した。なかなか話が進まない。経営状態が悪化していた南海の買収には、オーナーの川勝南海電鉄社長が、「俺の目の黒いうちは売らない」と反対していた。経営陣が球団を売りたいと思っても、関西経済界でも強い影響力をもつ川勝氏に一蹴されてしまう。ところが、球団の身売りを拒み続けてきた川勝氏が1988年、脳梗塞で急逝する。跡を受けた南海電鉄社長で球団オーナーに就任した吉村茂夫氏は、累積赤字を抱える球団の売却に着手せざるを得ないと決断し、球団売却に向けて動く。ホークスの買収話が一気に進むことになった。中内氏は、ホークスを選ぶ決断を下す。球団の本拠地をどこにするか?南海ホークスの球場は、関西国際空港にともなう難波駅周辺の再開発計画で取り壊しとなるからだ。中内氏は、ホークスの本拠地を神戸に移したいと考えていた。中内氏自身、生まれは大阪だが育ちは神戸で思い入れも強い。 鈴木専務は、福岡市の桑原敬一市長と福岡の財界トップにも情報を流したようだ。この報道によって、ダイエーのホークス買収が公となり、桑原・中内会談でダイエーが福岡に球団をもってくることが決まった。
 

 ダイエーホークスの新たな本拠地として使用する「スポーツドーム」と、屋内遊園地などを有する「アミューズメントドーム」、さらに2つのドームの間に高層のリゾートホテルを建設するという一大プロジェクトだった。ダイエーは球団誘致と開閉式ドームの建設を打ち出していた。総工費2,600億円もの巨大プロジェクトである。「ツインドームシティ計画」と呼ばれた。ダイエーは、「ツインドームシティ計画」を実現する用地を、福岡市が所有する博多湾埋め立て地「シーサイドももち」に購入する必要があった。89年、福岡市本議会は、「福岡ツインドームシティ」計画用地として、シーサイドももちのうち16.9haを、ダイエー側に総額約301億7,000万円で売却する案を可決した。

 

 「シーサイドももち」は、都心に近い職住接近の住宅地を市民に提供するために海を埋め立てて86年に完成したもので、138haの敷地に住宅や学校、文化施設、公園、IT関連の集積ゾーンなどをつくる計画だった。ところが、第2次石油ショックで住宅需要が落ち込む。整備した土地も思うように売れなくなり、市は計画の見直し。そこに飛び込んできたのが、「ツインドームシティ計画」である。ダイエーは当初、20haの分譲を市に申し入れた。ダイエーの希望をほぼ満たす「ゾーニング」を決定し、事実上の受け入れを決めた。これに基づき、市は「ツインドームシティ」用地16.9haを盛り込んだ、新しい土地利用計画を打ち出した。 この結果、小学校は3校から1校に、中学校は2校から1校に、住宅は当初の半分以下の3000戸に減らされることになった。ダイエーに用地を売ることで、当初、シーサイドももちの用地活用計画にあった住宅用地や小・中学校などの用地が削減されたことに対する不安、地域住民などからの反対も起きたようだ。

 

 福岡での球団誘致活動は福岡JCが地元財界にも働きかけ、交渉していた。それが突然、中内社長と桑原市長のトップ会談で、ホークスが福岡に来ることになった。福岡JCとしては寝耳に水の展開ではあったが、福岡に球団を誘致するという目的自体は達することができたともいえよう。
 西鉄ライオンズのライバル、ホークスである。昨日までの敵を、今日からは味方と思って仲良くやってくれと言われたようなものだ。ダイエーと地元財界との間には溝が生まれた。中内氏が、地元からの理解を得ようと財界のトップを訪問しても、会うことができず、名刺だけを置いて帰ることも少なくなかった。地元商店街などの反発も強かった。

 

 ダイエーとホークスは、地元財界や商店街、ファンに受け入れられるようになっていった。福岡市議会第三委員会は、ドームシティ建設にともなうものが4480億円、オープン以降、飲食、ショッピング代などが年間630億円見込まれるなど、初めて波及効果を明らかにした」とある。ダイエーの直接投資2,600億円、4880億円の経済波及効果が見込める。福岡ドームは国内初の開閉式屋根とするために、ものすごい重たい屋根となるが開閉にかかる時間はわずか20分、1回の開閉にかかる電気代などの経費は100万円以上かかる。福岡ドームが完成。