1945年、阪急軍は戦後プロ野球初試合の東西対抗戦が神宮球場で開催された。1947年チーム愛称の義務化により、チーム名を「阪急ベアーズ」にしたが、オープン戦での成績が悪く、ベア(熊)には株式用語で「弱気」「下落」という意味がある。阪急電鉄本社から「縁起でもない」と、レギュラーシーズン開幕日に阪急ブレーブスに再変更した

 

 阪神タイガースと関西3球団の人気に差が決定的にでた。関西3球団がこぞってパリーグへ行き、阪神タイガースは毎日新聞がプロ野球に入るのを賛成した。阪神タイガースもパリーグに行く予定だったが、大人気球団読売ジャイアンツの試合を捨てたくなかったからセリーグに残った。この決断は大成功。これは阪神ファンが一番よくわかっている。こう考えると歴史の歯車が少しずれただけで人生どうなるか分からない物ですね。

 

 この時の観客動員数は1954年阪神が68万人、南海が73万人で南海がトップ、阪急39万人、近鉄が21万人で上位グループと下位グループで分かれています。南海のほうが人気がありました。しかも、その後も南海と阪神は観客動員数で抜きつ抜かれつのデットヒート。素晴らしい戦い。1950年に大阪球場を南海は難波に作りました。この頃の南海は何度も優勝して常勝球団で人気球団。さらに南海が人気があるのはナイター施設があり会社帰りに試合が見に来れた。難波は便利ですよね。甲子園球場のナイター設備は大阪球場ナイター設備の5年後に完成。1956年に甲子園球場にナイターが出来ると劇的に観客動員数が変わりました。結局巨人戦がみんなは見たかったんですよ。あと南海は放映権料を高くしてメディアからひんしゅくも買い放送してもらえなかった。阪神と南海が決定的に人気の差が出る試合がある。1959年6月25日巨人阪神戦。これは昭和天皇が観戦する天覧試合。ものすごく名誉あることであり、日本中が注目を浴びた。シナリオがあるのかというぐらい試合である。巨人はエース藤田元司、阪神はエース小山正明が先発。この試合は点の取り合い。阪神リード、7回の裏に王貞治の同点ホームラン、9回の裏に長嶋茂雄がサヨナラホームランと誰か脚本を書いてない?という試合展開でした。これは全国放送をされ日本中が注目し、阪神人気が決定的になった。

 

 南海は1960年70万人いた観客動員数が1969年47万人まで減り阪神は同年63万人から103万人まで増えた。1965年から1973年に巨人が9回のセリーグ優勝と日本シリーズ優勝というV9時代が到来。この時期が巨人の歴史史上最大の人気があったと言っても構わない。観客動員数は現代のほうが多いとはいえ、この頃の巨人は日本男子=野球ファン=巨人ファンという方程式が出来ていて、この頃の子供たちの好きな物は巨人大鵬卵焼きと言われるくらいだ。現代で巨人が人気があると言っても、熱狂度とファンの数は圧倒的にこの頃だ。テレビ放送が始まり毎日視聴率20%越え、この巨人のライバルとして阪神タイガースが大阪府民の心をつかんだ。しかし、阪神タイガースは巨人戦しか満員にならない。あとは座席が空いていました。さて、観客動員数はどうなのでしょう?1975年から1984年だと年間65試合(ホーム)で130万人から190万人です。1試合平均だと2万人から2.9万人です。(ただこの頃は観客動員数を水増ししています)。東京ドームの巨人が4.5万人に対して5.5万人という1万人水増ししていたことから、そこまではやっていないにしてもおそらく阪神は3千人から5千人は水増ししていたと考えられる。すると実質的観客数が1.7万人から2.5万人で、あれ?人気の割にそこまで多くないなという感じです。そうなんです。阪神タイガースは弱いためそこまでお客さんが多くないのと、実はそこまでの人気がない。関西で一番人気だけという理由です。

 

 阪急がオリックスに最終的に球団を身売りがする。球団譲渡した最大の理由2つ、金融機関に阪急の双子の赤字である宝塚とオリックスブレーブスのどちらかを手放しなさいと言われたと西宮北口エリアと梅田エリアの再開発を言われた。宝塚歌劇団は阪急として守らないといけない。小林一三は鉄道経営は住宅地を開発しエンターテイメント施設を地方に建てて、人口を増やして鉄道収入が高くなるという手法だった。1937年甲子園球場に匹敵をする球場が阪急西宮球場を建設、もともと、阪神も阪急もお互いがライバルで実は巨人がライバルではない。しかし、巨人と阪神は戦前はずっと優勝を分け合っている。阪神のライバルはだんだん巨人になる。戦後、阪急は経営が苦しくなる、阪神に観客動員数で勝てないだけでなく、南海ホークスにも勝てない。

 

 

第二次世界大戦が終わった1946年からは8球団で再開、プロ野球は占領政策の後押しも有り発展。占領軍からの用紙割り当ての制限を受けていた新聞各社が新聞を出すためにスポーツ新聞をだす。戦前はほとんどなかったラジオ中継も空き時間を埋める題材としてプロ野球を用いた。馬鹿にされていた戦前とは違い、戦後の苦難にあえぐ国民の数少ない娯楽として、野球の人気が爆発した。大人気になったプロ野球は半分以上の球団に黒字化の見通しがあった。この成長が続けば翌年には全球団黒字だと言う人も出てきた。苦労が実りプロ野球はようやく黒字化してきた。プロ野球の成長は他の企業からの注目され参入したい企業も出てきた。

 

 正力が連盟総裁就任の記者会見で、「既存の6球団を8球団にする、そこで地固めをして更に10球団、それでも安定すれば12球団とし、2リーグへ」という「正力構想」と呼ばれる2リーグ制の導入構想を持つ。正力は、2リーグのうち1つは読売新聞社を親会社として持つ巨人、2つは参入を希望していた毎日新聞社にイメージをした。毎日新聞社は7月には非公式に打診し毎日オリオンズの加盟を連盟に申請する。既存球団からすれば、ここまで育てきたプロ野球に、今更になってから新しく入りたいというのは我慢が出来なかった。球団増加によって観客が減るのはプロ野球の人気低下すると反対する声が大きかった。正力構想が明らかになると、読売新聞ですら、毎日新聞のプロ野球参入は、長い間、我慢をして耐えて育て、ようやく有効な販促手段となったのに、ライバル紙が参入するのは反対だった。

 しかし、その他の5球団は賛成の意志を示す。当時の読売新聞は大阪では売られておらず、プロ野球の宣伝効果が大阪にはない、それに対して大阪毎日新聞が母体ともなっている毎日新聞であれば関西に宣伝できる。南海ホークスは巨人への反感、また大阪タイガースには事故の起こりやすい電鉄という批判をおそれ、関西私鉄3球団は毎日新聞の加盟に賛成し他2球団もそれぞれの思惑から賛成した。その思惑には、野球界の巨人中心主義への反発もあった。正力構想のゆっくりとした拡大路線とは裏腹に、事態が表面化するとプロ野球への参加を狙っていた企業からの加盟申請が相次いだ。

 巨人・中日・大陽は新規加盟に反対、阪神・阪急ブレーブス・南海・東急フライヤーズ・大映スターズは新規加盟に賛成をした。1946年に日本野球連盟で「これ以上球団は増やさない」という声明を発表していたが、賛成する5球団は既に状況が違うと主張した。賛成5球団をまとめ、多数決で強行突破しようとした正力は「2球団の参加を認め、1リーグ10球団を目指す」という盟約書をまとめた。加盟賛成派の5球団は2リーグへ分裂しても賛成5球団は分かれず、毎日と同じリーグへ一緒に参加するとの新たな協定を結ぶ。阪神は突然方針を変える。阪神の予想通り2リーグへと分裂することになったが、ここで阪神は毎日のリーグに移らず巨人のリーグへ残る。

 

 1950年に2リーグ制になる。2リーグ分裂後も1945年以降から1965年まで基本的にBクラスだった。どんどん強くなる。1967年に初優勝で3年連続リーグ優勝。1971年から2年連続リーグ優勝。しかし、v9の巨人軍にどうしても勝てず日本一にはなれなかった。1975年に6度目のリーグ優勝。この頃はサブマリンの山田久志、世界の盗塁王福本豊、強打と技巧打を使い分ける加藤秀司という3馬鹿トリオが生まれた。ついに日本シリーズを優勝し日本一になった。しかし、巨人を倒してこそ真の日本一と燃える阪急。1976年もリーグ優勝を果たし、巨人と日本シリーズで戦い、なんと阪急が優勝し日本一になったのだ。1977年にパリーグ3連覇をして、日本シリーズで巨人に勝ち、日本一。まさに阪急黄金期。1978年もパリーグ制覇。日本シリーズでは負けた。しかし、阪急の黄金時代も突然終わる。1988年10月19日に近鉄が勝てば近鉄が8年ぶりパリーグ制覇、近鉄が負けると西武のパリーグ4連覇が決まる。その時、突然阪急ブレーブスがオリエントリースへ身売りである。シーズン終盤には南海ホークスがダイエーへ身売り。阪急の身売りはだれも予測はしていない。プロ野球としてもAクラスを維持している阪急が身売りをするなど想像していない。結局、人気がないのである。その原因は阪神タイガース。おなじ兵庫県西宮市に本拠地を置きながらセリーグの巨人阪神とパリーグ自体人気のない阪急はお客さんが来なかった。テレビは報道しない。誰もパリーグを見てくれなかった。

 阪急はファンサービスもやっていた。福本と馬による競争。荒くれ物のアニマルレスリーと契約してレコードデビューさせたり、通訳のチコバルボンをCMに出したりプロ野球史上初のマスコットブレービーくんもデビューさせたが全て無駄だった。

1989年オリエントリースに売却された阪急はオリックスブレーブスとして再出発した。この時、親会社オリエントリースもオリックスとして社名変更した。オリエンタル・リースなんて会社は誰も知らなくても、新社名オリックスは誰もがわかる社名となったのだ。阪急は1952年は15万人、1966年まで25万人、1976年まで50万人、身売りの1987年まで60万人から110万人。阪神は1952年から1961年まで50万人から90万人、1962年からどんどん観客が増え、1958年まで100万人から260万人までふえた。南海ホークスは1952年から1961年まで65万人からどんどんふえ、85万人になった。しかし、セリーグの巨人阪神の人気に逆らえず、最終的に40万人まで減った。

 

 さらに1991年、阪急時代阪急西宮球場から、本拠地をグリーンスタジアム神戸に移転した。この際に、チーム名もオリックスブルーウェーブと変更される。本拠地移転と言っても、西宮市から神戸市という、同じ兵庫県内。イチローというスーパースターを得て観客動員もアップし、1995年と1996年にはリーグ連覇。1995年に阪神大震災が起こり「がんばろう神戸」のスローガンの元に優勝を果たし、神戸の市民球団としての地位を得た。1996年には、阪急時代からの宿敵である巨人を撃破して、オリックス球団として初めての日本一に輝いたのである。

 

 2004年のシーズン中、オリックスと近鉄は合併すると発表された。詳しい話はこの後の近鉄の話でする。