千葉ロッテマリーンズのイメージは私は良くない。なぜかというと未だに昭和のプロ野球経営をしているからである。最近で言うとコロナで球団経営が厳しくなった時に、ロッテの年俸交渉は全選手一律25%年俸をダウンしてから交渉スタートをすると報道が出たからである。これはのちに撤回。なぜ、この話題が出たかというとコロナで球団経営が多額の損害が出た。お金がない。だが、主力を手放したくない。だから、全選手年俸交渉をを一律25%減少してからスタートすることになる。しかも、これがタチが悪いのは、プロ野球選手は自由に移籍できないというのを球団が悪用しているからだ。この正解は年俸の高い主力選手を戦力外にするか、球団の財政が許容できるまで選手を戦力外にするしかない。お金がないのはしょうがない。ない物はない。活躍した選手に年俸を払うためには高年俸選手を放出するか他の選手を放出するしかない。球団は選手を自由に戦力外にできる。これは球団の権利。戦力外になった選手は他球団と交渉が出来る。これは選手の権利。これが一番正解。ロッテがやっているのは昭和。昭和のプロ野球は球団はオーナー会社の広告宣伝。だから広告宣伝費で経営。しかし、広告宣伝費でプロ野球選手の望む年俸は出せない。だから、活躍した主力選手をいろいろ言い訳しながらマイナス査定から始まるのだ。昭和のプロ野球の欠点はお金がない、プロ野球選手は自由に移籍でないを悪用、主力選手は手放したくない。だから、主力選手にマイナス査定から始まる。さらに、オーナー会社は球団を広告宣伝扱いなので、球団社長はオーナー会社の総務部から出す。この社長は何も決定権がない。球団社長はオーナー会社の広告宣伝費で球団を運営しなさいと言われている。この理不尽が不人気時代のパリーグの選手OBの話になるのだ。

 

 今ロッテファンが驚愕しているのは、ロッテ新球場だ。海浜幕張のロッテ新球場の建設費用650億円は市民球場部分の費用を千葉市が出す。それ以外の費用はマリーンズさんが探してくる。地球温暖化でとにかく夏が熱い。特に西武ドームでは暑くて西武の主力選手が熱中症で続出する事例が出た。屋外は雨で中止になることも多く球場に着いてから中止になることもある。夏の暑さは限界を感じている。ロッテファンはドームを求めている。ロッテ新球場の話題が出た時、「ついにドームになるのか」「駅から遠いので幕張メッセの駐車場をお願い。」はⅩであふれた。しかし、出てきたのは野外球場だ。しかも千葉市がお金を出す。千葉市の説明はドームは建設費が高くてお金がない。ロッテファンは全員びっくりした。巨人、ヤクルト、日本ハムの新球場は民間がお金を出しているからだ。特に、日本ハム本社は経営の柱としてファイターズを位置づけ新球場を建てたのだ。札幌市と千葉京葉線沿線の人口はおおよそ200万人。なぜ、日本ハムが自費で屋根付き新球場が出来て、ロッテが屋根付き新球場のお金を出さないんだ?千葉市長の説明では、ドームの新球場を建てても、コンサートなどの需要がないので、建設費1000億円以上かけた割に利益が出ないというのが説明だ。しかし、ロッテファンは腑に落ちない。なぜなら日本ハムの新球場ではコンサートをやっていないのだ。(例外を除いて)。京葉線沿線はディズニーリゾートの2700万人を筆頭に、南船橋駅の千葉ジェッツの1万人新アリーナに数百億円を民間の資金でやっている。海浜幕張にアルティーリ千葉が2万人新アリーナを民間資金で建てる。なぜロッテはお金を出さない。Ⅹにも僕と同じことを思っている人が多い。僕は、海浜幕張にイオンモールやメッセ、アルティーリ千葉新アリーナ、ロッテ新球場を建てるのならいっそのこと海浜幕張駅を再開発するすべての企業と話し合って野球、バスケ、コンサート、展示会、イオンモールのスーパーボールパークにすればいい。これだけの企業が集まるなら1000億円どころか3000億円は集まる。お金がないのにお金を出せは無理です。しかし幕張豊砂駅を建設するのに180億円、アルティーリ千葉が2万人新アリーナも500億円以上の費用になる。これだけ人が集まればイオンモールも儲かる。海浜幕張は渋滞がひどい。本当にドーム新球場を建てるお金がない?僕が正直がっかりしたのが、神谷俊一千葉市長が「お金がないので、幕張の海、風、空を感じまちとつながるエンターテイメントスタジアムの屋外新球場を建てると発表したらロッテファンからクレームが来て、海、風、空なんて感じたくない。ドームを建ててほしいという声が沢山来た。ドームだと1000億円かかる。もう一度検討してドームの資金を集めてみよう」と言った。お金のない物はない。ない物はないので仕方ない。僕がもっとも残念と思うのが、「ロッテファンのクレームが多かったからもう一度検討しよう」だったら最初からもっと検討してほしかった。市民のクレームが多いから検討しようならお金を集める余地はありそうだが、戦略性も経営の柱も全くない。なぜ、プロ野球でボールパークを検討しているかというと、プロ野球は地域の人口比率で考えると全球団観客動員数が上限まで行って、売上の限界なんですよね。それでボールパークや不動産事業などの副業で各球団売上を上げようとしている。だからこそ、ロッテの経営戦略性がないというのはそこなんですよね。ロッテが未だにマリーズを会社の宣伝広告費と扱っているのが凄く感じる。もう一度、ロッテが旗を振って海浜幕張駅周辺の再開発をもっと体系的に再開発は出来ないだろうか?日本のロッテはお菓子会社だ。売上高は3000億円で2025年3月の決算では利益が151億円で好調だ。最近はロッテファンや千葉県民からそうとう苦情が来たらしくドームを再検討している。普通に考えて人口200万人の札幌市に出来て、京葉線沿線の200万人都市圏のでボールパークとしての経営が本当に出来ないかが分からない。ロッテファンはロッテに経営の柱としてマリーンズを経営してほしいという願いだけだ。

 

 新球場を建てるヤクルトと巨人はどうなのか?ヤクルトと巨人はがっかりしつつワクワクする再開発でロッテとは違う。神宮球場はヤクルトの持ち物ではない。明治神宮の持ち物である。明治神宮は収益性が少なく、宗教団体のため公金を投入できない、老朽化する施設を維持するために明治神宮外苑の収益事業が必要。そのため、神宮外苑の再開発がすることになる。再開発費用は3500億円。神宮球場と秩父宮ラグビー場の場所の入れ替えて建て替え、高さ約185メートルと80メートルの高層ビル2棟を新設、新神宮球場併設のホテルを新設、伊藤忠の東京本社ビルの建て替え、神宮球場と軟式野球場の跡地に2か所の芝生広場を整備。どうワクワクするでしょう。ガッカリなのは、やはり屋外球場。雨で中止になるのも嫌ですが、やっぱり夏の暑さは我慢の限界がある。選手が熱中症で倒れる。とはいえ、3500億円というお金は巨額で、さらにこれ以上お金を出せというもの無理だし、ヤクルトなども限界がある。

 巨人はドームで築地跡地、9000億円という今まで類を見ない巨額。ドームでワクワクするかというと実はがっかりした巨人ファン。巨人新球場は野球、サッカー、アイスホッケー、ラグビー、バスケ、コンサート、展示会が出来ると言う。野球とサッカーはスタジアムスポーツでバスケ、アイスホッケーはアリーナスポーツ。スタジアムの形も違えば座席も全く違う。物理的に無理。日本ハムの球場で確かにバスケをしたけど、イメージ図を見ると球場の形を一切無視している。さらに、サッカーと野球が共存しているのが巨人ファンが衝撃で、日本ハムが札幌ドームでサッカーと共存できないと逃げたからだ。巨人が9000億円で新球場を建てるのに、巨人ファンが最高の座席で最高の観戦環境で見れないがっかりスタジアムになる。でもドームだし、近くに銀座がある。がっかりだけどワクワク。

 

 野球に詳しい人はロッテって日本企業なの?韓国企業なの?プロ野球は外資による買収はだめなの?という疑問があるはず。そこも解決しよう。まず、プロ野球球団を所有するためには外資の買収に規制をしている。野球協約第28条において、日本に国籍のないものの持ち株総計は49%を超えてはならないとされています。それを守れば外資?でもいいはず。しかし、すべてはオーナー会議で承認されないといけない。ロッテの日本法人は持ち株総計が日本国籍の割合が51%を超えていて、オーナー会議でもロッテは認められたのでしょう。まあ、そこもロッテの歴史に伴って説明します。

 

  では、千葉ロッテマリーンズの歴史を行きましょう。

 1949年毎日新聞社が毎日オリオンズが結成された。もともと、セミプロ野球チーム大阪毎日野球団を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘をうけ、球団を結成した。正力構想が明らかになる以前、読売新聞社を含む既存球団からすれば、ここまで育ててようやく軌道に乗りそうなプロ野球に、事業になるとわかってから新規に入ってくる事は、到底受け入れられるものではなかった。球団増加によって観客を奪われたり、ガラガラになったらプロ野球の人気低下を招きかねないと反対する声が大きく新規加入は認められてこなかった。正力構想が明らかになると、特に読売新聞からすれば、毎日新聞のプロ野球参入は、戦前から十数年間育て、ようやく花開いたプロ野球に、ライバル紙が割り込んでくるのは認められることではなく猛反対した。中日ドラゴンズの親会社である中部日本新聞社も読売と同様の理由で毎日の加盟に反対し、大陽ロビンスは毎日への球団売却という話が出たことで心証を悪くしていたため、読売・中日と同調した。しかし、その他の5球団は賛成した。当時の読売新聞は大阪では売られておらず、必然的に読売新聞の持つプロ野球の宣伝機能は大阪では担えない、それに対して大阪毎日新聞社が母体ともなっている毎日新聞であれば当然機能を満たせるという思惑があった。大阪タイガースには春の甲子園の主催であり事故の起こりやすい電鉄という業務から来る毎日への遠慮などの事情から、関西私鉄3球団は毎日の加盟に同調し、他2球団もそれぞれの思惑からそれに同調した。正力構想の本来のゆっくりとした拡大路線とは裏腹に、事態が表面化するとプロ野球への参加を狙っていた企業からの加盟申請が相次いだ。

 

 ここで巨人、中日、大陽は新規加盟に反対、阪神、阪急ブレーブス、南海、東急フライヤーズ大映スターズは新規加盟に賛成をした。1946年に日本野球連盟で「これ以上球団は増やさない」という声明を発表していたが、賛成する5球団は既に状況が違うと主張した。加盟賛成派の5球団は、「2リーグへ分裂しても賛成5球団は分かれず、毎日と同じリーグへ一緒に参加する」との新たな協定を結ぶ。ここで阪神は毎日のリーグに移らず巨人のリーグへ残ることを阪神球団代表、富樫興一が通告した。2リーグが分裂すると決まってから改めて行動を検討し、富樫と巨人球団代表・四方田義茂とで提携の話を進めた結果巨人と同じリーグに残ることとなった。「あの時は阪神が中途で寝返りを打ったように見えるが、実ははじめから、親会社の重役会議で、一、毎日を入れる、二、巨人とは離れないという線を決定していた。したがって巨人の怨みを買っても毎日を入れようとし、毎日の怒りを買っても巨人側を選んだ。世間から見れば二股膏薬のようにみえグラついて不見識のようだが、毎日を入れる、巨人と離れないというのが、最初からの最高方針だったのだ」と説明したことを著書で明らかにしている。他にも松木謙治郎は『新版 タイガースの生い立ち』の中で球団は表面的には毎日加盟に賛成しながら、球団としては巨人・阪神の看板試合を失いたくないという苦しい立場だったと書いている。パ・リーグは、毎日・西鉄クリッパース、近鉄パールス、阪急、南海、東急、大映の7球団で創立された。

 

 2リーグへの移行後、オールスターゲームや日本シリーズなどの開催によって、日本プロ野球の人気が高まった。さらに、中国地方・九州地方に新球団が誕生、これらの地方で日本プロ野球のファンが急増したことも、再編の大きな成果である。一方、徐々に2リーグへ移行する正力の構想とは違い、急速に再編が進んだため、2リーグ分裂の経緯やその後の選手引き抜きによって、両リーグの間に大きな遺恨が残った。

 2リーグへの移行当初、戦前からの人気球団である巨人・阪神がセ・リーグに所属していたのに対し、パ・リーグでは南海・西鉄が人気を博していた。このため、両リーグの観客動員数にはあまり差がなく、パ・リーグの観客動員数がセ・リーグよりやや少ない程度であった。その上、1951年にセ・リーグの西日本がパ・リーグの西鉄に吸収合併されて消滅したのに続き、1953年にはセ・リーグの松竹と大洋が合併して6球団となったセ・リーグに対し、1954年に高橋ユニオンズが加盟して8球団となったパ・リーグは追い上げムードにあった。ところが、高橋はファンの支持を得られず1957年に大映に吸収合併、更に大映がその年のオフに毎日に吸収合併されてパ・リーグも6球団となり、2リーグ12球団体制が始まった。この頃から両リーグの観客動員数の差が徐々に拡がり出した。

 

 1950年パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場

 毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースの湯浅禎夫を総監督、前大阪監督若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとる。リーグ優勝をし、日本シリーズでは松竹ロビンスを4勝2敗で下し、日本一になった。毎日はこの年から一度も年間勝率1位によるリーグ優勝をした上で出場した日本シリーズで日本一になっておらず、1958年からチーム名を毎日大映(大毎)オリオンズに変更するため、毎日オリオンズとしてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一はこの年が最初で最後となった。その後、2位、5位、3位、3位、4位、3位という中間の強さのチームとなった。

 

 1957年、成績が低迷していた大映ユニオンズと合併、毎日大映オリオンズ。1961年以降、チームは7年連続Bクラス。1964年より球団名を東京オリオンズに改称。現在で言うところの地域密着策ではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに映画会社・大映の永田雅一が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった。チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も1965年1月に引き上げ、主催試合の後援事業も1966年度シーズンで打ち切っている。球団は完全に永田が掌握したが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。しかし、この5年間で一度もリーグ優勝・日本一はなかった。

 さて、ここからロッテがオリオンズを買収する。ここで、ロッテの説明をしよう。

重光武雄(シン、ギョッコ)(ウィキペディア参照)

 

 重光は1921年、日本領朝鮮慶尚南蔚山郡(現在の蔚山広域市)に5男5女の長男として生まれた。1939年に蔚山農業高等学校を卒業。老人が牛耳る故郷に未来はないと見切りをつけ、妻と娘を残したまま1941年に所持金わずか83円(当時国家公務員の初任給は75円)で日本に移住。重光も文学を専攻するつもりだったが、徴兵を避けるには工学の専攻が必要ということになり、化学工学を専攻した。新聞・牛乳配達などをしながら、1944年までには早稲田実業高校及び早稲田高等工学校(現在の早稲田大学)を卒業した。

 重光は、日本人の友人の勧めで切削油生産工場を設立し事業を開始する。戦時中の連合国の爆撃で工場は全焼したが、アルバイトで働く学生時代の重光の誠実な性格を信じて5~6万円という多額を出資した日本人投資家は、稼働前に工場が爆撃で灰になっても重光を最後まで信じた。太平洋戦争が終結すると、朝鮮の同胞は次々に朝鮮半島に帰還したが重光は日本に留まり、八王子にある農家の納屋で鍋を借りてヒマシ油を使った石鹸の製造を開始した。これが飛ぶように売れ、靴墨やポマードなどの生産を開始し、これもまた好評を博した。1946年に新工場『ひかり特殊化学研究所』を荻窪に立ち上げ、やはり石鹸やポマードの生産を開始。重光は1年半後に日本人投資家に借金を全額返済、感謝の気持ちで住宅1軒を贈った。やがて進駐軍が持ち込んだチューインガムが人気を博しているのを見て、1947年にガム製造に乗り出すことになる。重光はガム事業における仲間の裏切りを乗り越え、1948年にひかり特殊化学研究所を株式会社ロッテと改称、代表取締役社長に就任する。ゲーテの若きウェルテルの悩みを愛読していた重光が主人公のシャルロッテより名前をとった。こうしてロッテのガムは人気を博し、重光は実業家として成功を収めた。1954年、サッカーW杯予選出場のために来日する韓国代表チームの支援活動を始める。1964年東京オリンピックの韓国選手団を支援した。

 1965年の日韓基本条約によって両国関係が正常化し、1967年、重光も祖国に貢献するという信念を引っさげ韓国にロッテ製菓を設立。日本で稼いだ資金で一方的に韓国に投資した。なお、重光は韓国に進出する際に食品会社ではなく、重化学会社の設立を希望していたが石油化学事業は樂喜化學工業社が事業者になって断念した。やがて資源が乏しい韓国には観光立国づくりが必要になると考え、韓国には一流ホテルがなかったため将来性があると判断し観光業への参入を決めた。ホテル業の経験はなかったので世界各国にある一流ホテルを回って勉強し、国際観光公社が経営していた半島ホテルを買収した上で、日本の帝国ホテルをモデルにした38階建てのロッテホテルを建設。ホテルは1979年に完成し成功を収め、1988年のソウルオリンピックの際には同ホテルに五輪組織委員会本部が置かれた。

 

 永田雅一の本業である映画会社・大映がテレビという新しいメディアに圧され、年々、経営が悪化していたのである。大映が傾いてしまっては、オリオンズに廻す資金もない。永田は水面下で、球団の譲渡先を探したが、首尾よくいかず、途方に暮れていた。ここで永田が頼った人物が、政治家の岸信介である。永田から多額の政治献金を受けていた岸は永田を助けるために、国内の大手製菓メーカーのロッテを永田に紹介した。1969年、重光は親交のあった岸信介元首相による仲介で東京オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のスポンサーとなったことから野球との関わりが始まった。ロッテは、米国の食品メーカーであるリグレーの日本上陸を恐れていた。リグレーの主力はチューイングガムである。そこでロッテの創業者兼オーナー社長である重光は、岸の依頼を受けることで、リグレーの日本上陸に歯止めをかけることができると考えた。オリオンズを広告塔として活用することを決めた。球団名をロッテオリオンズとするが、球団経営は引き続き大映に委ねた。かくして、オリオンズは経営権はそのままで、ロッテをスポンサーとして迎え入れることになり、ロッテオリオンズへと変更された。その後、大映の経営危機により1971年に正式にロッテオリオンズの経営権を譲り受けるが、オーナー職は球団の個人株主で大映経営時代の副オーナーだった中村長芳に委ねた。1972年に中村が退任して他球団の経営権を買収したため、重光がにロッテオリオンズのオーナーに就任した。1970年リーグ優勝

 

 さて、東京スタジアムの説明をしよう。当時の巨人、国営スワローズ、毎日大映(大毎)オリオンズの3球団が後楽園球場を本拠地としていたため、日程の過密化が常態化していた。このうち大毎のオーナーだった永田雅一は、私財を投じての自前の本拠地球場の建設を計画。深川の東京瓦斯運動場を建設地とする案が有力だったものの直後に破談となり、改めて南千住の大和毛織工場跡地を建設地に決定した。当時の大映は映画産業の斜陽化などで経営難に陥りつつあったが、永田は約10億円で用地を取得し、建設総工費約20億円をかけた。「東京スタジアム」と命名された。パ・リーグ全6球団がスタジアムに集結。午後4時から盛大に開場式を執り行い、永田は席上で「皆さん、パ・リーグを愛してやって下さい!」と満員(35,000人)に膨れ上がったスタンドに向かって絶叫した。「大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が下駄履きで気軽に通えるような球場」という永田の壮大な構想が具現化した、彼にとってはいわば「夢の野球場」だった。当時のオリオンズは低迷期で、開場年の1962年は4位。以降5位、4位、5位、4位、5位と苦戦していた。また、当時は巨人が黄金期(v9時代)を迎えていたこともあり、プロ野球人気はセ・リーグ偏重の傾向が強まっていた。年間観客動員数も開場初年度こそ70万人を突破して盛況を見せたもののその後はジリ貧に陥り、スタジアムの建設費を回収できない経営状態が続いた。なお、1967年の最終戦は近鉄バファローズとのダブルヘッダーで両試合とも観客が200人だった。

 1971年、大映は球団の経営権をロッテに譲渡し本社の経営再建に乗り出すものの倒産。関連子会社の東京スタジアムも累積赤字が約15億円にまで膨らみ、「このまま貸し球場として所有していたのでは採算が取れない。球団と球場は一体的に運営するのが理想」として、ロッテにスタジアムの買い取りを求めた。しかし、ロッテはこの案に難色を示し、賃借契約の継続を要請。交渉は事実上決裂。「球場は廃業するので、来季以降は使用できない」とし、東京スタジアムは同年限りでの閉鎖が決まった。開場からわずか11年目のことだった。同年、ロッテの主催公式戦の観客動員数は、年間65試合で31万人にとどまっていた。最後のプロ野球公式戦は、10月15日のヤクルトアトムズ対阪神タイガース戦だった。

(東京スタジアム ウィキペディア参照)

 

 ロッテは大毎オリオンズ時代の1962年から東京スタジアムを本拠地としたが、1972年オフに閉鎖されたことによって本拠地を失うこととなった。1973年は引き続き東京都を保護地域とし、首都圏に本拠を置く他球団の本拠地を使用することを前提に試合のスケジュールを決めたが、ロッテ自体が本拠とする球場が定まらず、試合の半数を後楽園球場、明治神宮球場、川崎球場の空き日程に埋めてもらったものの、それでも半数以上は開催地が未定のままだった。明治神宮球場はヤクルトと話し合ってすき間に試合を入れてもらう。しかし、大学野球やヤクルトの日程のため後楽園球場と川崎球場でも試合をした。

 宮城県仙台市にある宮城球場(現楽天ゴールデンイーグルスの本拠地)を使用する案が浮上した。これは河北新報をはじめとする宮城県内の企業15社の出資によるプロ野球興行会社「東北野球起業」の提案によるもので、年25試合の主催公式戦を仙台で開催するというものだった。当時首都圏や関東にはナイター設備を有する野球場が少なかったこともあってロッテはそれを受け入れた形となったが、本拠地移転を公式に実施する場合はプロ野球実行委員会(同委員会で4分の3以上の賛成票を得ること)やオーナー会議の承認を前年11月30日までに得ることが条件となるため、この年は登録上の保護地域は東京都のまま実質的なホームは宮城(ただし、正式な専用球場の届出はなかったことになる)となった。