【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年1月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、合併後の町村単位で主に村名称の変遷を荏原郡全体で俯瞰してみたが、今回から何回かにわけてもう少し細かく見ていきたい。はじめに取り上げるのは、荏原郡の中で唯一町制を施行することとなった品川町の成立過程について確認していこう。

(ちなみに現在の東京23区に相当するところで、1889年(明治22年)に町制が施行されたのは品川町の他に、南豊島郡に属する内藤新宿町、淀橋町、北豊島郡に属する巣鴨町、南千住町、岩淵町、板橋町、南足立郡に属する千住町、南葛飾郡に属する新宿町と9町を数えるのみで、そのすべてが江戸期の宿場町として賑わっていたところであった。)

 

品川町は前回確認したように、当初は南品川町と称する予定であったが、これは北品川宿を東京市内と予定し、荏原郡下で南品川宿を中心とした村などを合併対象と考えていたためである。第一次案では、次のような組み合わせであった。

 

  • 南品川町 = 南品川宿 + 二日五日市村 + 北品川宿の一部(目黒川以西)

ご覧のとおり、南品川宿の合併相手は隣接する二日五日市村で、この両者を比べれば南品川宿の方が人口ベースの比較はもちろん、名の通りも圧倒的に南品川の方が上であった。よって、二日五日市の名はまったく考慮にならず、南品川町となったのも当然といえる。また、錯綜する村界のため、目黒川という自然地形を利用して北品川宿の一部を組み込んだ。これは、他町村の合併においても飛地を認めない格好となっていたので、当然の帰結となる。続いて、第二次案の組み合わせを見てみよう。

  • 南品川町 = 南品川宿 + 二日五日市村 + 北品川宿の一部(目黒川以南、鉄道線路及び碑文谷道以南

組み合わせは変わっていないが、北品川宿の一部の表現が「目黒川以西」から「目黒川以南、鉄道線路及び碑文谷道以南」となっている点が異なる。これはどういうことかというと、端的に言ってしまえば北品川宿からの東京市内への編入区域が狭まった(減った)となる。市制町村制の施行に合わせて、東京市としての領域は東京15区をそのまま東京市にするのではなく、15区に隣接する区域のうち市域として遜色ないところは東京市に編入する方針があった(一方、15区内であっても町村と変わらないような区域は東京市から外す)。ところが、新たに市域に編入されると税金が高くなるという話が出回り、地域によっては市域編入反対運動が発生した。さすがに完全に地元の意向を無視するわけにもいかないため、徐々に市域編入区域は減っていくことになるのである。続いて、最終案ではどうなったか。

  • 南品川町 = 南品川宿 + 二日五日市村 + 北品川宿の一部(目黒川以南、鉄道線路及び碑文谷道以南)

第二次案から何も変わっていない。このまま何も変わらなかったかといえば、最後で大どんでん返しが起こる。実際の施行時では、次のようになった。

  • 品川町 = 南品川宿 + 二日五日市村 + 品川歩行新宿南品川利田新地南品川猟師町 + 北品川宿の一部(目黒川西南のうち鉄道並びに碑文谷道以北を除く

最終案まで東京市内(芝区)に編入される予定だったほとんどの区域は、北品川宿のほんの一部を除き、すべてが東京市内から外れ南品川町と一体になり、町名も南を外して品川町となった。実際、品川歩行新宿・南北品川宿の大半がここに属することとなれば、品川町を名乗る方がより相応しいのは確かとなる。

 

以上、品川町の誕生までの変遷を眺めてきた。基本構成としては、南品川宿と二日五日市村に北品川宿をはじめとする他の品川宿がらみのエリアが、東京市に編入されるかそうでないかの綱引きがすべてといっていいだろう。品川町は、その後、東京市域拡張で市に編入される際には、隣接する大崎町と大井町と合併して品川区となり、戦後は荏原区を合併して名称は品川区とそのまま継承した。品川という名前は宿場町として江戸期より知られていたのはもちろん、鉄道駅の名前としても広く知れ渡り、その知名度は東京の中でも高いものの一つといえる。だからこそ、他との合併によってもそのまま生き残ることができたのだろう。といったところで、今回はここまで。