【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年1月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回の続き、というか書き足りないことやコメント欄に頂戴したご質問などにお答えさせていただこうという流れで行ってみたい。

 

 

さて、そもそも本付録は東京35区が目的なのではなく、東京名所66か所を紹介する絵はがきを集めたもの。名所の一覧は再掲した上図にも明記されているが一部読みにくいところがあるので、所属する区をあわせて列挙してみよう。(なお、漢字は常用漢字に置き換えている。)

 

麹町区(18か所)

  • 1 二重橋
  • 2 宮城二の丸付近
  • 3 桜田門
  • 10 靖国神社
  • 11 遊就館
  • 19 日比谷公園
  • 23 東京市役所
  • 24 警視庁
  • 25 国会議事堂
  • 28 東京中央電信局
  • 29 東京中央郵便局
  • 36 丸ビル
  • 37 大手町通り
  • 38 内幸町通り
  • 39 霞ヶ関通り
  • 48 東京駅
  • 52 馬場先門付近
  • 58 ビル街の朝

神田区(3か所)

  • 17 ニコライ堂
  • 56 神田市場
  • 60 水の上の生活

日本橋区(3か所)

  • 30 日本銀行
  • 31 三越と三井銀行
  • 42 日本橋

京橋区(7か所)

  • 32 東京劇場
  • 33 歌舞伎座
  • 34 銀座大通り
  • 35 銀座尾張町
  • 46 永代橋
  • 57 魚河岸
  • 59 東京の反面

芝区(5か所)

  • 13 増上寺本堂
  • 15 泉岳寺山門
  • 18 芝離宮恩賜公園
  • 53 芝浦の岸壁
  • 62 芝浦の桟橋

赤坂区(5か所)

  • 4 赤坂離宮正門
  • 5 青山御所
  • 8 明治神宮外苑
  • 12 乃木神社
  • 47 赤坂弁慶橋

四谷区(3か所)

  • 9 日本青年館
  • 40 新宿大通り
  • 63 神宮プール

下谷区(5か所)

  • 22 上野動物園
  • 26 東京府美術館
  • 27 東京科学博物館
  • 41 上野山下付近
  • 49 上野駅

浅草区(6か所)

  • 14 浅草五重塔
  • 21 浅草伝法院の庭
  • 51 地下鉄ビル
  • 54 浅草仲見世
  • 55 浅草公園六区
  • 65 水の上の生活

本所区(5か所)

  • 16 震災記念堂
  • 43 隅田川風景
  • 44 吾妻橋
  • 45 両国橋と国技館
  • 64 水の公園

深川区(1か所)

  • 20 清澄庭園

大森区(2か所)

  • 61 池上本門寺
  • 66 海苔を採る舟

渋谷区(2か所)

  • 6 明治神宮
  • 7 明治神宮宝物殿

淀橋区(1か所)

  • 50 新宿駅(図中では四谷区となっているが誤り)

以上、66か所。圧倒的に麹町区(現在の千代田区の一部)が多く、18か所を数える。やはり、東京の中心と言うべきか。これに続くのが京橋区(現在の中央区の一部)の7か所で、銀座・有楽町という繁華街を抱えており当然の二位。そして、6か所の浅草区(現在の台東区の一部)が三位。江戸期以来の繁華街は健在だ。一方、旧15区のうち、麻布区、牛込区、小石川区、本郷区は一つもあげられていない。無論、各区ともそれなりの見所はあるのだが…。

 

また、今日見ることができないもの(特に太平洋戦争中に米軍による空襲で失われたものが多い)もあるが、その代表的なものをあげてみよう。23番「東京市役所」である。

 

 

表札を見れば、東京市役所だけでなく東京府庁とあることからわかるように、同じ建物に市役所と府庁はあった。庁舎という点では、既に府と市が一体化、つまり先がけて都制が実現されている(笑)。現在、新宿に東京都庁はあるが、かつては有楽町にあったのである。

 

他にも施設(名所)としては残っているが、当時の建物でないものはいくつもある。国技館、歌舞伎座、警視庁、などなど。

 

それでは、他の写真もいくつか見ていこう。

 

 

まずは、34番「銀座大通り」。これは現在の中央通りのことで、撮影場所は銀座三越の屋上。ここより南(新橋)方向を向いて撮影したものである。注目は銀座の柳の木で、1932年(昭和7年)ではまだまだ低木であることが確認できる。

 

 

続いては、59番「東京の反面」。ここにいう反面とは裏側という意味で、華やかな銀座の裏側はこんな情景ですよ、というもの。撮影場所は銀座一丁目を大根河岸(現在の中央区京橋三丁目)側から見たあたりで、おそらく東京高速道路西銀座出入口に近いところだと思われる。この手の風景は、現在の東京でも多く見られるが、表面だけきれいにしておこうというのはいつの世も変わらないと言うことか。

 

 

今回ご紹介する最後は、50番「新宿駅」。関東大震災後の拡張工事で大きくなったはずの新宿駅だが、当時既に日本一の乗降客数を誇っており、完成した途端手狭になるという悪循環はこの頃より始まっていた。写真は東口の様子を写しているが、まだ和服が目立つ(特に女性)。

 

では、前回記事のコメントを頂戴した内容に関連してあれこれ述べておく。

 

荏原区は、最終的には荏原町単独で1区を構成したが、馬込町の千束地区は田園都市分譲地共々、荏原町と1区を構成したいとの強い意見があり、その結果、馬込町は当初の大森区から荏原区へと変更になった。すると今度は馬込本村(千束以外)の側が、荏原町との合併に強い難色を示すようになった。馬込本村は、池上道や大森駅との関係から荏原町よりも入新井町との関係が深いことに加え、人口比で圧倒的多数の荏原町(10万人以上)と合併しては馬込本村(千束地域との人口比も5倍程度の差があった)の意見が通らなくなるという懸念も強かった。よって、猛烈な反対運動が起こされ、馬込町は当初案どおり大森区となり、千束地域の分離案も消滅。荏原町単独で荏原区を構成した。

 

戦後になって、戦争によって徹底的に破壊された地域とそうでない地域とのアンバランスが生じ、東京城南地域においては蒲田区と荏原区の被害が大きかった。蒲田区は大森区が救済する形(蒲田区は人口6万程度まで激減)で合併することとなったが、このことからわかるように当初案では大森区だった。だが、合併協議の場での大森区の有力議員のつまらない一言で協議は紛糾し、合併すら危ぶまれたが、最終的に大森区と蒲田区は対等合併であり、その証として両区一文字ずつとって「大田」区とした。一方、荏原区は品川区に事実上吸収合併となったので、区名は品川区のまま変わらなかった。

 

といったところで、今回はここまで。