未来(先のこと)が分かっていれば、と思うのは昔から変わっていないように思いますが、1秒後の身の回りのことと、1年後の身の回りのことが同じ確率でないように。そして1秒後の身の回りのことと、1秒後の銀河系全体(把握可能であれば、ですが)のこととが同じ確率ではないように、時間と規模によって(不確定性の広がりによって)異なるのは言うまでもありません。
(さらにいえば、対象の範囲=絞り込みの程度によっても異なります。)
これは、個々人の時と場合によってもいえることで、例えば万馬券を当てたいというのと、10年後に資産家になっていたいというのでは、プロセスも時間経過もそれに関連する項目数も異なるわけで、そう単純ではないこともわかります。
で、標題の話になるわけですが、個々人にとっての安心や安全というのは、自明のことですが一致することはほぼありません。むしろバラバラであるのが自然であって、よく国や地方自治体の首長等が安心・安全という宗教家なのではと見紛うほど唱える者もありますが、これって何に対して具体的にどのようなというものを示して宛がったとしても、個々人によって、さらに時期によって変わってくるのは当たり前だとなります。
これは、信ずるものは救われるというレベルでしかなく、とどのつまりは気休めと同じようなものです。端的に言ってしまえば、安心・安全ばかりを強調するのは、気休めをほざいているだけと言い切っても過言ではありません。
具体的に川が決壊した。だから決壊した箇所を補修の上、堤防を強化するというのは、わかりやすい安心・安全策です。1秒後の身の回りのことを予測するようなものです。決して気休めとはいえませんが、かといって、それを超える水害が起こったり、経年劣化に伴う補修を怠っていれば、気休めに成り下がるのは言を俟ちません。これさえやっておけば大丈夫、という甘いものではないわけです。
考えていけばきりがないので、どこかで考えを止めることもいいでしょう。それこそ気休めにあたるもので、思うに不確実な世の中、人生であるのなら、必要なことを考え実行することは大事ですが、必要以上に及ばないことまでは考えなくてもいいという自明な結論が得られます。そんなことを出勤前に思いつつ、今回はここまで。
